夜が来なければ良い。



 僕の背丈と変らない大きさの置時計(ホォルクロック)。繻子(サテン)の光沢に似た琺瑯(ほうろう)の文字盤と、真鍮(しんちゅう)の腕の長い振り子を持った骨董の置時計が僕の中の何かを呼び覚ます。
 漠然とした夜に対する不安が頭をもたげる。しかし玻璃(ガラス)戸の中から響く少しくぐもった時を刻む音は止まず。正確に、そして確実に夜は訪れるのだ。
 今日もまた。
 時計の歯車は僕の心臓を煽り、追い立てるように鼓動を早める。逆流する血液に呼吸(いき)が苦しくなって、視界が淡く紅く染まった。
 自分の身体が思うように動かせずに、目の前に有る木製のくせに触れたらひんやりとする時計の胴に凭れかかる。視線の先にある文字盤の中央下に覗く巻き鍵を指す穴を、僕は恨めしげに見つめた。
「一体、誰が――、」
 流れ続ける刻(とき)と同じく、動き続ける長針と短針。
 けれど。
 僕はこの時計の巻き鍵の在処を知らない。なのに止まる事無く、着実に夜を呼び寄せてくる。
 静電気のような違和感が首筋に走った。そっと指先を頤に近づけた瞬間、歯車の音が僅かに撥ねる。打刻音が辺りに響いた。

「さあ、僕の時間だ。」

 耳元で僕の声がする。膝から崩れるような感覚の後、僕は意識を失い、――そして僕を取り戻した。
 まずは巻き鍵で発条(ぜんまい)を巻かなければ。
 首に下げた皮紐を手繰り上げると、その先に翅(はね)を広げた蝶の容(かたち)の巻き鍵が現れる。それは夜に、僕を僕が手に要れる為の鍵。



 夜を待っていた。






‥了
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