今夜は天気が好いから、『  』が増えるだろうね――。





 朔の夜は街燈が眩しい。目を閉じていても虹彩が灼け付く気分だ。でも、それもまた心地好い。跳ねるように乳白色の明るい円を避けて、細い路地を歩いた。
 少し斜めになった十字路の中心で足を止める。遠くを見るように首を伸ばして、来た道以外の三方を覗き込んだ。それから匂いを嗅いで鼻を三回鳴らす。
「こっち、かな、」
 その芳しい甘い薫りのする右の道を選んだ僕は、一歩目をついスキップにしてしまった。いくら何でも浮かれ過ぎだ。慌てて急停止。咳払いひとつ。
「大丈夫。あれは逃げたりしない。」
 自分に云い聞かせて、慎重に足を踏み出した。



 朔の夜は闇が濃いので馴染み易い。天鵞絨の外套を羽織れる位階になった気分で満更でもなかった。本当は薄っぺらな肩掛けを引っ掛けているだけの下位なんだけど。
 細い路地の少し歪な十字路の中央で、両耳の後ろに両手をそれぞれ添えながら小さな音に耳を澄ます。
「うん。この近くだ。」
 硬質の玻璃を触れ合わせたような儚げな音を暗い影が連れてくる。いつ聞いても心地好い。今夜の仕事を巧くやれば、銀釦を貰えるかも。
「……迎えに行かなきゃ。」
 僕は間違いの無いようにもう一度音のする方が確認して、左の道を急いだ。





 朔の夜の星灯りは意外と暖かい事に気付けたのは嬉しい。けれどその知識を誰にも語れずに逝くのは思った以上に落ち込む。ああ、でも、暖かく感じるのは僕の体温が奪われているからかも知れないな。――どちらでもいいか。
 こんな人通り――どころか猫通りも無いような細い路地の袋小路で死体になったら、見つけて貰えるのはいつの事だろう。出来れば腐敗する前には見つけて欲しいと思うのは最後の我が儘。
(やっぱり独りなんだな、)
 口を開いても息しか出ないのと、誰にも看取られずに死ぬのとどちらが情けないか。結論は簡単だ。そんな事を考えている僕ほど痛い存在はない。
 くだらない事を考え過ぎているからか、なかなか生を手放すことが出来ないでいる。全身の感覚は疾うに失っているのに、思考だけがいつまでも稼働し続けていた。
(早く逝きたいのに、)
「あれ、まだ生きてる、」
 闇が話し掛けてきた。朔の夜は闇まで喋る――、誰にも知らせることは出来ないんだけど。闇は横たわる僕の頬をするりと撫でて、でも僕自身には興味が無いらしく、そろそろ溢れ尽きて乾き始めた血溜まりに鼻を近付けていた。どうやら闇ではなくて、漆黒の獣のようなものらしい。
「見習いはまだみたいだね。また迷子になってるんじゃあないだろうな、」
「また、とは失敬だな。」
 別の声が割り込む。
「それに、『見習い』は卒業した。」
「……『貝釦』、」
 明らかに揶揄を含んだ闇色の獣の声音に、『貝釦』と呼ばれた少年が眉根を寄せた。他人とは謂え、僕の死に際で喧嘩されても困る。一体何を、否、彼等は何者なんだ。今更警戒はしないけど、好奇心でもない、解ったって意味も無い事だし。
 翳んでいく視界の中で、獣が口を開き、紅い舌で紅い僕の血を舐めている。
「甘いね、コレは誰にも愛されていない子の味だ。」
「余計なことを云わなくても良い。」
「余計な事じゃあないよ。ねえ、誰に伝えて欲しい、」
 僕のことを覗き込む獣の姿が見る間に闇に融け始め、別の形を象る。質問の意味を理解しかねて呆然とする僕の目の前に、僕の像があった。
「奴は"蟲"だ。ほら、よく云うだろう、『蟲の知らせ』って。」
 驚いた。そして、納得した。本当に蟲が知らせてくれるのだ。有り難い話だが、知らせて欲しいと思うような誰かを思い付かない。僕は孤独に耐えかねたのだから。
「綺麗な顔が残っている内に、散歩途中の犬にでも見つけて貰えるようにしてあげるよ、」
 蟲は僕の顔で僕がしたことのない爽やかな笑みを残して、人通りの有る方へとふらり、歩き出す。数歩で姿は見えなくなったが、スキップの足音が聞こえた気がした。
「さて、そろそろ逝かなければ、」
 貝釦がその細い腰に手を当てて、僕を見下す。
「今夜は朔だから忙しい。」
 何がどう忙しいのか、今の僕にはよく解る。僕のように新月の潮汐作用に引き摺られて、命を絶つ者が増えるのだろう。一人に時間を割いている場合ではないのかも知れない。解ってはいるのだ。こんな時にまで誰かの手を煩わせたくはないのに、自分で自分の何処も動かせなかった。これだけの血が流れたらもっと躯が軽くなっても良い筈なのに。
 多分、困った顔をしたんだと思う。表情も作れないので本当のところは彼が勝手に解釈してくれただけかも知れない。それでも正しい反応として、貝釦は大きく溜息を吐いた。
「全く。本当はこの場に固執してるんだろう、」
 呆れた声音は哀れみに変わる。
「君みたいのはすぐに縛られる。」
 そう。
 消えて亡くなりたかった訳じゃないから。
 独りで居る事に耐えかねただけだから。
 蟲と貝釦に出遭えた僕は、つい、嬉しくて長居をしてしまった。
「君自身が逝く気にならないと貝釦の僕には引き剥がせない。」
 彼の白い手が差し出される。それはとても優しい指先で僕を誘った。
 微動だにしなかった躯がふわりと軽くなり、君に届く。握り締めた手のひらは冷たかったけど、誰かと一緒の夜は月灯り以上に温かかった。







‥了
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