ここが何処だか分からない。
 そこに何があるのか分からない。
 自分の存在すらも見失いつつある朦朧とした意識の中、差し伸べられた温かな腕を今でも記憶している。



 彼は何時の頃からかその閉じられた部屋の中に居た。
 いや、部屋はいつも開け放たれている。
 それにもかかわらず、外の空気すらも入ってこれないほど、その部屋は閉ざされていた。
 時間と空間から置き去りにされてしまった部屋の中で、彼は静かに微笑んでいる。

「君は僕の唯一だよ。」
 掛けられる言葉は優しく、触れられる体温は僕の中に温く堆積していく。
「僕も貴方が唯一です。」
 何度も繰り返した僕の言葉は彼の元には届かない。そういう凄烈さが彼の周りにはあった。



「蝶が、蝶が飛んでくる。」
 ある日、彼は宙を見上げてそう呟いた。襖で切り取られた空には、何も在りはしない。

 ぐらり。
 視界が歪む音がする。

 これはあの時と同じ恐怖。自分の存在が薄れ逝く恐怖。でも何故か温かい。
 僕は彼の腕にそっとくちづけると、部屋を後にした。
 彼の後ろに見えるのは、僕が見た闇と同種の歪み。
 あの闇を埋めることができるのは、僕だけ。


 手に入れた白い蝶を手渡す。
「この翅があれば、僕はここから出られるのだろうか、」
 彼はそう言うと徐にその翅を破いた。白い欠片がはらはらと睡蓮鉢に落ちる。落ちた欠片は沈む事なく、水面を滑るだけである。
「壊れてしまったね。」
 腕を広げて僕を招き入れながら、彼はとても静かに微笑んだ。
 彼が僕を愛撫する指は細く、呼吸は儚い。

 消え入りそうな彼の命の続く限り、僕は彼の欲するものを捧げよう。

 彼が僕を救ったのと同じだけ、僕も彼を癒さなければならない。




 本当に壊れてしまったのは誰。




 あの禍禍しい死の恐怖から僕を拾い上げた貴方の為に、僕はこの身を捧げるだろう。
 永遠に。


 君主(きみ)が狂気を全て我が身に――――――






‥了