街の喧騒がまるで別世界に感じる高台にある施設。其処はニ―三階建ての建物が敷地内に幾つかあり、それらは渡り廊下で繋がっていて複雑に絡み合っているような印象を受ける。緑色の木々の隙間から見ることのできるそれらの建物は全て白く塗られていたが、飾り柱や一部の壁には蔦が登ってきており、人工では有り得ない模様を浮かび上がらせていた。よく見ると一番奥には他の建物とは違う、高い塔のようなものがある。それを目印にここまで登ってきたのだ。
 サナトリウム。
 ここは僕のように生きていく上で必要な機能に何らかの障害を持つ少年たちが、清浄な空気と最新の治療システムによって療養する場処である。





 僕が其処へ来て初めて話をしたのは、もうずっとここに居るらしい少年だった。
「君は流水(ルミ)だね。」
 それだけを唐突に言うと、全く興味を失ったように廊下の奥へと行ってしまった。
「じゃあ、流水、こっちが君の部屋だ。」
「いいえ、僕は・・・。」
と言い掛けるのを歩き始める事で制した看護士の青年は、僕がついて来ているのを足音で確認すると僅かに笑みを洩らした。
 ここでは本名は要らないんだ。さっき君に名前をつけていったのは名津(ナツ)と言う少年で、彼がここに来る者全員に名前をつけている。それが彼の仕事であり、治療なのだと言う事を淡々と話した。もう何度も同じ事を繰り返しているのだろう。まるで台詞の言い回しのようである。僕はここでは本名でない方が都合が良いのだと不思議と納得していた。それよりも何故僕は《流水》と名づけられたかの方が気になって、知らず知らずのうちに歩く速さが遅くなってくる。それもまた芝居の演出になっていたのか、看護士の青年は足を止めて後ろを振り返ると僕をじっと見つめて自分の喉の辺りを指差す。
「・・・・・。」
 彼の動作で僕は自分がここへ来た理由を思い知らされる。踵を返して少し先を歩き始めた看護士の青年の後を僕は慌ててついていく。長く真っ直ぐな廊下に靴音と透明な風が響いていた。





 薬品の匂いのする白く静か過ぎる部屋には、代わる代わる何人かの少年達が新入りである僕の顔を眺めにくる。露骨に顔を覗き込む者、扉の影から半身だけを覗かせて盗み見ている者、幾人かを連れ立って来る者のなど、どれも新しく来た者の試練だと好きなようにさせる事にして、手持ちの鞄の中身を寝台の脇にある小さな物入れに片付けていた。部屋の中には寝台と物入れ、着替えなどを入れる箪笥、天板の広い机と組になった硬い椅子が部屋の中心から対称に二組づつ有った。
「この部屋は二人部屋なんだ。」
 寝具を取りに部屋を出ていた看護士の青年が戻ってきて、手にした荷物を寝台に置きながら言った。その事で僕は長い間、呆然と隣の寝台を眺めていた事に気が付く。
「ここの部屋の持ち主は何処ですか。挨拶もしないと、」
 照れ臭さを隠すように寝台の端に腰掛け、真新しく糊付けされたシーツの端を指先でなぞる。
 確かに今まで誰も使っていなかった自分の寝台はマットレスがそのまま剥き出しになっているのに比べて、使われていないようではあるが皺一つ無く整えられている寝具を見ると、この部屋に同居人が居ても不思議では無い。しかし興味本位で覗き見する者以外、ここの部屋の住人らしき人物は一度も現れていなかった。
「彼は今治療中なんだ。」
 そう言って青年は腕時計に目をやる。きっちりと筋肉の付いた腕に良く似合う、チタン製の大きめでそれでいて仕事の邪魔にならないシンプルなクロノグラフだ。腕時計で日付を確認した彼は、明日には戻って来ると少し楽しそうに言った。
「それから、僕が君達の担当の叶生(かのう)です。何かあれば僕に言って下さい。」
 胸に付けている真珠色のプラスチックの名札を見せるように事務連絡をする。壁の色と室内灯の明かりが反射して、名札に書かれた文字は白く消されて読めない。どんな字なのかを確認する事は出来なかったが、そんな事に大した興味は無い。それよりも名札があるという事は本名である。彼はやはりここの看護士であって患者ではないのだ、という事の方を考えていた。
「ここでの生活の時間表は机の抽斗の中に有る。学校よりも細かく区切られているよ。良く読んでおいてくれ。」
 口調は真面目な様だが目の奥にはそれとは逆の影が在る。短く鼻で笑うと逆の方の口調で続けた。
「そんな決まり事をまともに守っている奴なんかはいないがな。それにその辺りの事なら、僕よりも君達のほうが上手くやるだろうがね。」
 そういうと叶生看護士は部屋を出ていった。姿が見えなくなって直ぐ顔だけを覗かせると、夕食の時間には迎えに来るよ、と付け加える。僕は返事が間に合わず、廊下を歩いていく少し反響する足音に向かって、喉の奥で返事を返していた。





 夕食は寝台から置き上がれない者を除いて、一箇所の食堂に集まって食べる事になっていた。六人掛けほどの大きいだけのテーブルが、広いホールの中に真っ直ぐに三列に並べられている。しかしそれ以外はカウンターに好きな物を好きなだけ取りに行くシステムで、其処だけを見ていればカフェテリアのようだ。
 叶生看護士に付き添われて食堂へ入った僕は、先ずカウンターに向かいトレイを受け取る。それを見ると彼は食堂を出ていった。看護士は別の場所で僕達とは別の食事の時間がとって有るらしい。そのせいか食堂の中には大人は居らず、食事をしている者達の雰囲気が部屋にいる時と違って奔放な感じがした。
 カウンターの上に並べられた皿を適当に幾つかトレイの上に置くと、食堂の一番隅の椅子に空きを見つけて其処に座る。直ぐ後に背の高い観葉植物の鉢が有り、幅広の縞の有る葉の先端が僕の首筋に触れた。
「睡蓮(すいれん)と同じ部屋なんて、ずるい。」
 気づかなかったが後からついて来ていたその少年は、持ってきたトレイを乱暴にテーブルの上に置くと、椅子をガタガタ鳴らしながら向かいの席に座った。周りに居た殆どの少年たちが、一斉に僕の方を見る。初めは彼が鳴らした椅子の音で皆が注目しているのかとも思ったが、彼らの興味の対象は間違いなく僕であり、『睡蓮』という名前に有るようだ。浴びせられる視線は羨望に満ちており、どうやら『睡蓮』呼ばれる少年は、このサナトリウムの皆から一番好意を寄せられている人物である事が伺えた。
「僕が決めた事じゃ、ない…。」
 そういう事が問題ではないのは十分承知していたが、他に言いようも無い。空調の風に揺れる観葉植物の葉を避けるように首を傾げて、真っ直ぐに向けられる痛い視線を避けた。


 その後の時間は僕にとって苦痛でしかなかった。
 『睡蓮』という名前と僕への視線は次々と食堂の中を波立たせ、囁きは強い風のように耳の中で渦を巻く。
 ひりひりと乾燥する喉は食事を拒否していた。食べずにその場を去る事は無償に癪に障るような気がして、無理矢理にトレイの上の食事を詰め込む。唾液の代わりに涙が出た。それでもトレイをすっかり空にすると、足早に部屋に戻った。





 誰もいなかった部屋の中は暗く、空気はひんやりとして紅潮していた頬を冷ましていく。寝台の上に倒れこむと硬いスプリングの振動と、新しい寝具の糊の香で、いつしか僕は眠りについていた。


 何かが乾いた喉を潤していた。それは温かく優しいリズムで、僕の中に注がれている。忘れかけていた液体を飲み込むという行為ではあったが、何故かとても自然で当たり前のように受け入れられる。
 水分を受け付けなくなってどのくらい経ったのだろう。
 でも今は何の抵抗も無く水分を摂っているではないか。僕の中の壊れた部分は修復されたのだろうか。いや、そんな筈は無い。僕はその破壊された機能の修復の為にここにやって来たのだ。ここ、『サナトリウム』へ。
 寝起きのまどろみも無く、唐突に目が醒めた。しかし起きあがる事ができない。何かが僕の上に覆い被さっていた。それは両腕を僕の耳の横に置いて自らの体を支えていて、自然と僕の動きを封じている。
 何が行われているのか、全く分からなかった。分かりたくなかった。何故なら誰かの唇が僕の唇を塞ぎ、舌を割り込ませて僕の喉の奥へと唾液を流し込んでいるのだから。
 僕が起きたのを確認してもそれは止められる事なく暫く続いていたが、あまりの無抵抗さに興味を削がれたのか、その誰かはゆっくりと顔を遠ざけていく。彼の唇と僕の唇の間を儚い糸が繋いでいたが、距離が広がるにつれて光って弾けた。
「おはよう。」
 意味ありげに手の甲で唇を拭くようにしながら、彼は僕を見下ろしている。
 僕と同じ位の少年だった。落ち着いたトーンの柔らかい声。僅かな空気の動きにもなびく、少し色素の薄い髪。高くはないが整った鼻梁。赤く薄い唇。そして何よりも印象的だったのは、青味を帯びた大きな瞳。彼が睡蓮という少年なのだと一目で分かった。
 起き上がる事すら忘れて呆然と見つめる僕に目笑すると、右手を差し出してくる。やっとの思いで動かした僕の手を彼は素早く掴むと、引っ張るようにして上体を起こしてくれた。
「水、受け付けないんじゃないの、」
 寝台の端に腰掛けながら、確かに彼はそう言った。個人の故障個所については介護士以外には知らない筈だ。人権侵害に関わる問題として、重要機密にされるのである。
「叶生さんから聞いた。『流水』という名前でも想像できるけど。名津は他人の故障個所を感じる事ができるんだ。」
 僕の疑問を彼は矢継ぎ早に解決していく。彼が僕の故障個所を知っている事、叶生介護士が彼に症状を洩らした事、どちらも不思議と不快に思わなかった。彼が僕の事を知っているという事は、安心感を伴う心地好さを僕に与えている。
「相当、喉が乾いていたのかい、」
「いや、どんなに喉が乾いていても、水分は受け付けない。」
「でも、飲んだ。」
「うん。君の、だったからかも。」
「僕、の、」
「君の、だから受け入れられた。」
 睡蓮は一瞬途惑った風に目を逸らし、それでも再び僕の方を見た時には躊躇(ためら)いなど無かったかのように意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「それは僕の事を好きだって事、」
「そう、かも、」
 嘘ではなかった。でも僕自身も少し驚いている。こんなにも素直に自分の心のままの言葉を吐いたことは今までにだって無かっただろう。


 今日初めて逢った彼は眠っている僕に何の前触れもなくキスをし、知らないうちに介護士から機密事項を訊き出していた。嫌わないまでも警戒してよさそうな状況だが、警戒どころか僕は彼に全てを知ってもらう事に何の抵抗も無い。彼の事を好いているという事実が、僕の中の尖った部分を仕立ての良い絹でやんわりと包んでいるようだった。
 僕の予想外の返事に彼の瞳が僅かに揺らいだ。
「じゃあ、証拠を見せて。」
「どうすればいい、」
「流水からキスして。」
 睡蓮は目を閉じて腰を屈める姿勢で僕の顔の傍に自分の顔を近付ける。僕は右手で彼の頬に触れ、左手で細い頤を支えた。
 彼の唇は思ったよりも冷たい。さっきのは悪戯半分だったのだろう、今は少し緊張しているようだ。触れている部分を通して体温を交換していくうちに彼の唇は温かさを取り戻しつつあり、それとともに僕を少しづつ後へ倒していく。寝台の上で重なり合いながら、僕はこれまでの渇きを取り戻すかのように、彼の中の水分を欲し続けた。



 時折、睡蓮の瞳の中の深い藍色がゆらゆらと漂うのを見逃せば良かった。





 その日から僕のサナトリウムでの立場は途端に上がる事になる。睡蓮が僕を認め、その保護下にあることがサナトリウム中に知れ渡ったからだ。僕に浴びせられる視線の内、羨望は残ったものの、明らかな部外者に見せる敵意だけは取り除かれている。徐々にではあるが、打ち解けられる少年も何人か現れた。
 朝食の後、部屋に居るところを叶生介護士に呼び出される。カウンセリング室と呼ばれる部屋で、僕の故障個所についての検査が行われるらしい。ここへ来るまでにいろいろな外科的な検査はしてきたが、精神的な検査と今後の治療方針について、担当介護士と相談するのが通例になっているのだ。
 部屋を出る前に睡蓮が言った「気をつけろよ」という意味を理解できないまま、カウンセリング室の前に立った。扉をノックしようと右手を上げた途端、音も無く扉が開かれ、そこには叶生介護士が立っている。
「どうぞ。」
 彼は言葉と動作で僕を室内に招き入れた。
「失礼します。」
 軽く頭を下げて部屋に入った。部屋の中は相変わらず真っ白で、窓から差し込む朝の光が紗のカーテンから滲み出ている。部屋の真ん中にはテーブルとソファが有り、緑の糸で刺繍を施した綿のカバァが掛けられていた。それは部屋のあちこちに置かれている観葉植物の葉の色と調和して、目が痛くなるの防ぐ役割をしている。
 僕がソファの前で立ち尽くしていると、叶生介護士は自分が腰を下ろしてから、着席を促した。
 テーブルを挟んで2人は暫く黙ってお互いを見つめていた。


「僕が睡蓮に君の事を話したのを、怒られるかと思っていた。」
「別に構いませんよ。いずれ広まっていくものです。」
「睡蓮だから、かい、」
「まあ、そうかもしれません。」
「素直だな。」
 叶生介護士は興を削がれた風に少し俯いて次の言葉を探している。そして今思い出したばかりのように、初めから喉に在った言葉を投げ掛けてきた。
「水を摂れたそうだね。」
 彼の目は全てを知っている光を宿している。
 見られていた。あの時の事を。すべて。
 睡蓮が自分から話すとは思えない。
 それではたまたま目撃してしまった誰かが話したのだろうか。いや、それも有り得ない。睡蓮を裏切る少年はここには一人だっていないのだ。


 睡蓮の忠告「気をつけろよ」の意味が分かった気がした。
 答えに躊躇していると、彼はノォトに何か書き込みをしながら続ける。
「君と彼の間の心情や関係を尋ねているのではないのだよ。あくまでもカウンセリングの流れだ。」
 ノォトから目を外して僕をじっと見る。
「水…ではないかな、彼の体液を摂ることができた、と言うんだね。」
「よして下さい。そんな言い方…、」
 あまりの事務的で無機質な言い方に思わず声を荒げてしまった。そして少し後悔する。
 それでは何と聞かれたら良かったのだろう。キスしていたのか、と尋ねられたら、はい、と返事が出来たのだろうか。
「さっきも言った通り、僕が興味が在るのは君たちの関係じゃない。君の故障個所の状態だ。」
 彼は再びノォトに目をやり、ページを捲ったり戻したりしながらカウンセリングを続ける。
「君はこれまで水分及び液体を口から摂取することが出来なかった。食事で足らない分は外部から補充しなければならない。その為にこのサナトリウムにやって来た。」
 ノォトに添付されているらしいカルテを読んでいる。
 確かに僕は毎日の点滴で命を繋いでいるに過ぎない。人間は自分で思っているよりも多くの水分を必要としているのだ。水を飲めない以上、外から体内に直接入れる他なかった。
「口から水分を摂取できるという事は、故障個所が自己修復しつつあるのかもしれない。それを知りたい。」
 そう言われて黙っているのも意味の無いことのように思えて、僕は首を縦に振った。
 僕が肯定したのを見て、何かノォトに書きつけると、立ち上がって窓際に設えてある小さな流し台へ向かう。
 飾り気の無い硝子のグラスに水を注ぐと、戻って僕の前に置いた。グラスの表面に貼りつく水滴が、テーブルの上に星型の模様を映す。
「飲んでみてくれないか、」
 もっともな行為だった。自己修復が成されているのなら、この水も飲めるかもしれない。でも。
 グラスを手にしてはみたものの、グラスの中でひらひらと翻る光に眩暈がする。無理矢理にグラスの縁に口をつけるが、口の中に零れた僅かな水を飲み込めず、慌てて流し台へと走った。
「水は、飲めない。」
 そう呟いた叶生介護士は、流し台の縁にしがみつく僕の後ろに立った。
「体液なら、受け付けるのか、」
 彼はやっとの思いで立っている僕を易々と振り向かせる。そのまま片手で後ろ手に僕の両手首を掴み、もう一方の手で顎を押さえると唇を押し当ててきた。正気で在っても逃れることは出来ない。それだけの体格差があった。
 僕は掴まれた顎を押し下げられ、僅かに開いた歯列の間から流れ込む彼の唾液を感じる。生暖かいそれが舌の上から喉の奥へ到達する瞬間、胃から逆流するものがあった。
 動かす事のできた頭を思い切り振ることで急を知らせ、開放されたのと同時に流し台の中へ朝食だったものを戻す。膝に力が入らず、その場に座りこんでしまった。
「悪かったね。やっぱり睡蓮の体液でなければ駄目なんだ。」
 一人納得した叶生介護士はさっきまでとは打って変わって温和な雰囲気で僕を軽々と抱き上げると、部屋の奥に有る簡易寝台に運んだ。硬いマットレスだけの寝台は背中と反発して寝心地は良くなかったが、体を起こしているよりは随分と楽だ。情けないが、力なく横になったままだった。
 やっぱり睡蓮のだから受け入れられた。
 今のことで体力的にも精神的にもかなりの疲労があったにもかかわらず、僕はその事が確認されて幸せだった。
 水も他の液体も要らない。
 睡蓮が居てくれたら、それだけで良い。
 目を瞑っているのに白く光る瞼の裏に、睡蓮の青みがかった瞳が映った。





 僕が部屋に戻ったのは、皆が昼食に出ている頃で、部屋に繋がる廊下はしんと静まり返っている。血の気の無い顔を見られずにすんで良かったとほっとして部屋に入ると、中にその時は一番逢いたくなかった睡蓮が居た。
「遅かったね。」
 睡蓮は歩み寄りながらそう言った。何故か少し不機嫌そうな口調だ。
「一緒に昼食を、と思って待ってたんだけど、食べられそうに無いね。」
 僕の顔色を見ていったのか、今まで何があったのか知っているのか、どちらにしても彼は間違いなく気分を害している。
「あぁ、食べたくない。君は昼食に行っておいでよ。その間少し休んでる。」
 努めて明るく言ったつもりだったが、睡蓮の顔は少しも変わらない。
「僕以外の唾液も受け入れられたの、」
 唐突で不躾な質問だった。思わずどうして知っているのかを尋ねそうになって、それを飲み込む。知っているのではなく、聞かされていたのだ。僕の故障個所も睡蓮が訊いたのではなく、叶生介護士から聞かされていた。
「飲んだの、」
 再び強い口調で攻め立てる。どこまで聞かされているのだろう。事実を言うべきなのか。
 ただでさえふらふらする頭の中で小細工はできない。それに事実を伝えても、僕にはやましい事は無かった。
「カウンセリングで水と、唾液を飲まされた。でも、どちらも受け入れられなくて、すべて吐き戻してしまった。」
 僕が本当のことを言っているのが彼には伝わったのだろう。徐々に睡蓮の顔に変化が現れた。後悔と羞恥の徴に頬がぱっと赤らむ。
「本当に、」
「本当だとも、僕は睡蓮の、じゃなきけりゃ受け入れられないし、睡蓮が良い。」
 僕のその言葉を聞いて彼は慌てて自分の机の抽斗を開け、中を弄る。中から取り出したのは掌くらいの大きさの楕円形をした缶ケェスだった。
 傍に戻ってきた彼はいつもの挑発的な笑みを浮かべ、僕をじっと見据える。
「良いものをあげるよ。」
 そう良いながら彼は缶ケェスの上蓋を少しずらし、丸く切り抜いてある箇所を下にして、掌の上で数回振った。穴から白い粉を振ったような薄い青色のドロップが零れ出す。
「吐いたのなら、口の中が気持ち悪いだろ、」
 そう言いながら、ドロップを差し出す。僕が受け取ろうとして手を伸ばすと、彼はそれを自分の口に頬張ってしまった。
 行き場の無くなった僕の腕をとると、彼は自分の首の後ろに回す。
 すぐ傍にある睡蓮の唇からは薄荷の匂いがして、僕を誘った。
 喉の渇きに我慢ならなくなった僕は、彼の誘いを受けて唇を交わす。
 睡蓮から受け取った薄荷の味のするドロップと唾液は、僕の中の奥深くまで染み渡っていった。





・・後編
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