その日の夜、やわらかでひんやりとした光が僕を起す。寝台の上で目だけを開けた僕は、窓の向こうの漆黒を濃紺に滲ませている大きな月を見た。
 月の光の雫を浴びながら、窓枠に腰掛ける睡蓮の姿に吸い込まれるように体を起こす。声を掛けるのがはばかられた。
 闇の中の動かない時間。
 青白い月光だけが音を立てて降り注ぐ空間。
 壊れた自動人形(オートマータ)の僕等。
 現実間の無い風景を現実の場所へ引き寄せたのは、軽やかな睡蓮の笑い声だった。
「眠れないの、」
 ぐっすりと眠っていた僕にそう尋ねる彼。相変わらず意地悪だ。
「僕の台詞だ。ずっと其処に、」
 一緒に寝台に入った筈なのに、僕のに比べて彼の寝具はまったく乱れていない。人が其処に横になっていた歪みも体温も無かった。
「まあね。隣に人が居るのは久しぶりだから興奮しているのかな。」
 逆光になっていて睡蓮に顔は見えなかったが、なんとなく声に影が降りているような気がする。
 彼は音も立てずに窓枠から飛び降りると、僕の寝台へとやって来た。そのまま僕のすぐ脇に腰掛け、両腕を広げて僕の体を包み込む。ふわ、と舞った空気が月の光と混ざって僕の頭の奥を刺激した。
 僅かに開かれた睡蓮の紅色の唇が僕の頬を触れてなぞる。思わず僕は目を閉じた。吐息は僕の唇に触れたが、唇は寸前の処で止まる。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「キス、すると思った、」
 耳元で囁く声に、恥ずかしさは頂点に達していた。肩に乗っている彼の細い顎が笑い声に合わせてカタカタと揺れている。真っ赤になっているだろう僕の顔は睡蓮には見えない筈だが、体温が上昇しているのは感じられる筈だ。
「付き合ってくれないか、」
「え、」
「ここじゃなくて、もっと良いところに行こう。そうしたらキスしてあげるよ。」
 漸く僕の耳元から顔を放す睡蓮。恥ずかしさと腹立たしさに僕は彼の両肩を掴んで力いっぱい押し倒す。吃驚している睡蓮に軽くキスすると、両手を掴んで引っ張り起こした。僕なりの『お返し』である。
「良いよ、行こう。」
 睡蓮は楽しそうに軽く頷くと、静かに部屋の扉を開けた。



 勿論今は消灯時間で物音一つしない。
 禁止されていることをするのは僕達の特権だ。ましてやこんな綺麗な月夜にじっとしていられる方がどうかしている。月の魔力と少年の冒険心は共鳴し、真夜中の秘密の行動を飾り立てるのだ。
 そして僕等は廊下の空気すら動かさずに、闇の中に駆けて出した。



 非常灯の緑がかったぼんやりとした明かりの中、廊下を抜け、階段を上り、僕等は進んだ。
 どうやら睡蓮は何時もこんな事をしているようだった。
 通った道は入り組んでいて、暗い建物の中はまったく覚えられない。幾つかの棟が渡り廊下で繋げられているこのサナトリウムは、昼間でも初めての者を迷宮へと誘う。
 迷宮も数をこなせばただの通路になる。例え頭の中で今居る場所が何処か分からなくても、体か次の行動を覚えている。行動は脳を通さずに反射として扱われ、彼の中に深く根を張っているようだった。
 右足の角度、首の向き、全てが睡蓮の中の自動航行制御装置による。そうなってしまうほど、睡蓮はこの行動を繰り返している。それはすなわち、長い時間をこのサナトリウムで過ごしたと言う事ではないだろうか。
 そう思った瞬間、睡蓮の壊れた部分について何も知らない事を思い出した。機能障害の箇処。原因。そういえばカウンセリングにも行っている様子は無い。しかし、僕がここへ来た時、彼は治療中だった…。
 考え事をしてしまった僕は自然と足が遅くなっていた。先を行く睡蓮は息切れの音が聞こえなくなった僕の方を振り返り、目で先を促す。
 再び前を見て今までよりも早く走り出した睡蓮を追う事で、僕はいろいろな疑問を徐々に遠くへと押しやっていった。



 いくつめかの扉の前で漸く睡蓮は足を止めた。彼は肩を上下に動かしてはいるものの、呼吸には目立った乱れは無い。僕の方はと言えば、久しぶりの運動でかなり息が荒くなっていた。
「ここから先は歩いていこう。」
 睡蓮の言葉にほっとして、僕は息を整えるために大きく深呼吸を三回した。
 僕の呼吸が落ち着くのを待って、彼は扉を開ける。
 突然明るい場所に出た。と言っても照明が点いていたわけではなく、床以外が総硝子張りの渡り廊下に出たのだ。
 部屋の窓から覗いていた月が僕等を硝子越しに照らしている。窓枠で遮られていない分、月は大きく明るく見えた。
「天を歩いているようだろう。」
 さっきとは打って変わって、息をするのを忘れて見とれていた僕は、彼の言葉でゆっくりと息を吐く。
「水族館(アクアリウム)に有るトンネルみたいだ。」
「あぁ、水槽の中を通っているトンネルの事。」
「そう。」
「宇宙を海に例える、と言うのはよくある事だからね。頭の上に海があるというのは、こんな感じなんだ。」
 何度も通っている筈の場所なのに、睡蓮はこの光景を初めて見たような顔をしていた。
「目的地はこの先だ。今の時期なら直接夜風に当たるのも悪くないだろう、」
 再び歩き始める僕等。今度は二人、手を繋いで。



「ここだ。」
 睡蓮は重い鉄の扉を体で押し開けた。古く重い扉は独特の音を立ててゆっくりと開かれる。
「あ、音、」
 不快な音は思ったよりも響き、僕は誰かが聞きつけやしないかと心配になった。
「大丈夫。ここは人の居ない棟だから。」
 彼に促されて僕は外へ出る。
「あ、」
 宙に出たかと思った。
 大きな月はあの渡り廊下よりも近くに有り、建物の中よりずっと明るい。夜空に張り出した露台のようなその場所はサナトリウムの一番高い場所、貯水槽の置かれた給水塔の頂上だった。
 空気の清浄で希薄な高台に有るせいで、群青の天に散りばめられている星は今にも零れ落ちそうに綺麗を通り越して怖いくらいだ。
 見上げるだけではもったいなくて、思わずその場に横になる。ひんやりとしたコンクリートが火照った身体を心地良く冷ます。僕は宇宙の温度を背中に感じて、ますます夜空と一体になっていった。
「いつも来てるの、」
 ここまでの通り道やこの光景を見て妙に落ち着いている睡蓮に尋ねる。
「まあね。」
 静かにそう言うと、僕の横に同じように寝そべる。
「でも、こんな風に見た事は無かったな。」
 空の闇と星と月の光は、上から天蓋のように僕と睡蓮に覆い被さっている。口を開ければ飲み込んでしまいそうで、随分と長い間、僕たちは黙って夜空の下に居た。
 耐え切れなくなって零れ落ちたいくつめかの星を目で追った時、不意に睡蓮が半身を起こす。起こされた上体はそのまま静かに僕の上へと下ろされてきた。
「流水、鼓動が聞こえる。」
 僕の胸に耳をあてた睡蓮は、じっと目を閉じて命の音を確認している。
「僕の中に有る液体が僕を生かしている。でも僕は液体を摂る事が出来ない。それでも僕は生きている。」
「うん。」
 人が生きると言うのはかなり複雑なシステムなのだと、自分で言ってみて知った。僅かな歪みは受け入れられず障害として残り、大きな破損はすり返られ異常部分を残さない。では、睡蓮の場合は…
 思わず目が合ってしまった僕等は、お互いに微妙に視線を逸らし、再び夜空を見上げる。
「何か話してくれないか、」
「何かって、」
「何でも良いんだ。流水の声が聴きたい。君のその最後が少しだけ掠れる声を聞きながらなら、僕は、」
 僕は、の続きを聞きたかったが、睡蓮のやわらかな呼吸にその気を失わされた。そのまま彼が眠ってしまうのかもしれないと思った僕は、取り止めも無い話を始める。そう、僕の体が壊れてしまうまでの何処にでも在るくだらない話を。



 朝の冷気に揺り起こされた僕は、まだ明け切らないぼやけた風景と胸の上で相変わらず命の音を聞き続ける睡蓮の笑顔を見た。僕が起きたのに気づくと、漸く体を起こし、立ち上がる。
「早く戻らないと、起床時間に間に合わない。」
「起こしてくれたら良かったのに。」
 僕は立ちあがりながらそう言うと、悪戯っぽく笑いながら再び重い扉を開ける睡蓮と一緒にその場を後にした。沈み忘れた大きな惑星が、二人を見送っている。
 朝焼けの乳白色と夜の群青色が混ざり合う空の下、睡蓮の藍色の瞳がまた揺れていた。





 一日が始まった。
 僕と睡蓮はなんとか朝の検温時間に間に合っていたが、確認に来た叶生介護士は僕等が何処で夜を明かしたのか知っている風に静かな笑みを向けてくる。微妙な雰囲気の流れは有ったが、お互いにその部分に触れないような意味のない会話をするだけで終わっていた。



 毎晩とまではいかないものの、僕が夜中に目を覚ますと、睡蓮は夜の散歩に僕を誘った。
 給水塔、屋上、薬草の栽培されている温室。何処へ行っても睡蓮は僕の胸の上で静かな息をする。僕の声を聞きながら。
 彼と過ごすこの数日間は僕の中で全てにおいて潤っていた時間だった。カウンセリング後の水分補給のための点滴の量も減ってきている。
 ただ、この満ち足りた時間は薄い氷の上にあることを感じていた。



 僕がこのサナトリウムに来て十日ほど経ったある朝。
 目覚めると隣の睡蓮の寝台は空っぽだった。彼が居ないだけでなく、寝具も全て片付けられている。慌てて飛び起きると、朝の検温に叶生介護士がやって来るところだった。
「彼は、」
 僕は反射的に体温計を受け取りながら叶生介護士に尋ねる。
「睡蓮はどうしたんです、」
 狼狽(うろた)える僕を宥めるようにゆっくりと彼は答えた。
「まずは体温計を腋に挿みなさい。それから話を始めよう。」
 仕方なく寝間着の釦を外し、体温計を挿む。挿んでいる方の腕を押さえるように反対の手を軽く添え、寝台の端に座ると、じっと叶生介護士の目を見つめた。
 彼はまず、自分の腕時計に目をやり、それから哀れむような視線を僕に向けた。
「睡蓮から何も訊いていないのかい、」
 心臓が大きく脈打つ。
 僕はまだ何も睡蓮から訊いてはいない。彼自身の事。彼の機能障害の事。今朝起きたら居なくなっていた理由。そして藍色の瞳がゆらゆらとたゆたう訳。
「彼は今日からまた治療に入る。」
「治療…なら、すぐに戻って来るんだ。」
 そんな筈は無い。すぐに戻って来るなら、寝台の上はそのままでも良いし、僕に黙って居なくならなくても良い。それに何よりもこの不安感。僕は嫌な空気を振り払うために、意味の無い暗示を自分にかけていた。
 再び腕時計を見た彼は小さく「はい」と声をかけて右手を差し出す。僕は無意識に体温計を外すと、彼に渡した。
「睡蓮の症状について、何か訊いているのかい、」
 体温計を胸ポケットにしまい、ノォトにメモをとりながらの質問だった。
「いいえ。」
「そう、」
 顔を上げた彼の表情はやっぱり変わらない。
「睡蓮は処置室の奥の部屋にいる。今ならまだ間に合う。」
 そう僕に耳打ちすると、叶生介護士は部屋を出ていった。詳しい事情は分からない。でも、間に合わなければならなかった。
 僕は素早く着替えを済ますと、処置室へと走り出す。睡蓮に逢う為に。



 処置室はカウンセリング室と同じ廊下にあり、一番奥まった場所になっている。一応形だけのノックを繰り返すが、中からの返事は無かった。おそらく叶生介護士が先に手を回しておいてくれていたに違いない。
 処置室の中は暗く、誰も居る様子が無かった。電気を点けるのを躊躇っていると、部屋の奥に光の漏れてくる扉を見つける。僕は睡蓮がここに居る確信を持って、その扉の前に立っていた。
 扉のノブに手を掛ける。金属性のそれは、中に有る何か機械のようなものの振動を伝えてきた。同時に作動音が僕の鼓動と共鳴し始める。
 扉の中は大きな装置が沢山設置されていた。装置から装置へとコードが配線され、いくつかのコードとチューブが真ん中にある一際明るい透明な容器に繋がっている。
「あ…。」
 透明なカプセルの中に人影が見える。人影は明らかに少年で、間違い無く睡蓮だった。
 彼の細く長い両腕には点滴のチューブがあり、尖った踝の側にはコードが貼ってある。寝間着ではっきりとは見えないが、胸には心電図をとる為だろうパッドがいくつも付いて、それぞれからコードが伸びる。頭にあるのは脳波用だろうか。そしてなんとも痛々しいのは、睡蓮の顔半分を覆うマスクで、何かの気体が彼の呼吸器に送られているようだ。
「睡、れ、ん…。」
 叶生介護士の「間に合う」という言葉を信じて、僕は冥ってしまっているような彼に声を掛けた。
 瞼が僅かに動く。睡蓮はゆっくりと目を開けると、少しだけ顔をこちらに向けた。明るいカプセルの中の彼の瞳はいつもにまして蒼く揺れている。
「君は、どうして、」
 サナトリウムに居るんだい。何処が機能障害を起こしているの。何故、僕に黙って行ってしまったんだい。いろいろ聞きたい事が後から後から湧いてくる。どうして今までに訊いておかなかったのか。後悔の念が寄せてくる。
「泣かないで、流水。僕は眠るだけだ。」
 眠るだけでこれほどの装置は必要ではない事は想像できる。
「ただ、人より永いだけ。僕の機能障害は睡眠がとれない事。眠れないんだ。だからこんな機械が必要なのさ。」
 睡蓮は睡眠障害の究極だったのだ。
 人は眠らなければ生きられない。不眠症というものがあるが、それもまったく眠れないわけではない。ほんの僅かな時間でも身体の要求を伴って眠りにつけるものだ。ニ、三日眠らなくても大した障害にはなりにくい。
 しかし彼の場合は違っていた。まったく眠れないのだ。眠る事によって休まる身体や神経は、放って置けば永遠に酷使し続けられる。眠れない事に対するストレスと、眠る事によっておきるストレスが、睡蓮の体を蝕んでいたのだ。
 ここにある装置は大量の睡眠剤で無理矢理眠らせ、その間の栄養を補給し、眠ってしまった事によって顕れる様々な身体の拒絶反応を取り除く為のものだったのだ。
「眠るだけなら、僕に黙って行く事はなかった筈だ。」
 僕は思わず声を荒げてしまった。睡蓮はマスクの中で静かに微笑んでいる。
「いつまで眠るのか、次に目覚める保証は無いから。」
 聴きたくは無かったが、僕の中で想像できた中の最悪の台詞だった。
 大量の睡眠剤と激しいストレスは、少年を破壊するには充分な要素だ。
「あの夜は、眠れたの、」
 僕は月の綺麗な夜に給水塔で過ごした日の事を訊いた。あの時、睡蓮は僕の「声を聞きながらなら眠れるかもしれない」と思ったに違いない。僕が睡蓮を欲するように、彼も僕を欲してくれていたのなら嬉しい。
「ううん、残念だけど。でも目を閉じていられた。それだけで幸せだった。」
 睡眠剤の吸入が続いている。睡蓮は顔を正面に向けて、再び目を閉じた。
「僕が次に目を覚ます事があったら、最初に流水の声を聞かせて。」
 そう言うと彼は眠りの淵に落ちていった。


 相変わらず装置は無機質な音を立てている。


「喉が、乾くよ。睡蓮。」


 喉が焼けるようだ。僕の中の水分は全て睡蓮が持って行ってしまった。目の前が暗くなる。その場で僕は気を失っていた。





 サナトリウムの僕の部屋。
 白い壁と天井に光の波が打ち寄せる。
 腕が重い。水分補給用の点滴はこれでいくつめになるのだろう。
 隣の寝台は相変わらず空っぽで、不思議と其処には光が射し込んでこない。
 窓際の机の上では、ドロップの入った楕円形の缶が持ち主を待っていた。






‥了
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