鬱陶しい気分だった。何もする気が起きない、午後からの授業中。ほとんどの生徒がそうなのだろう、教室の中は変に静かで暗い。抑揚のない教師の言葉は、教室の中の何処にも染み込まず、重みを伴って余計に気分を害していた。
 時間潰しにはもってこいの窓の向こう側の景色は、不幸にも室内の状態をそのまま映し、どんよりとした雲が一面に敷き詰められている。白から黒へ、黒から白へのグラデーションの波が窓枠の額縁の中で永遠に繰り返されていた。


 もしかすると、その声は初めてではなかったのかもしれない。意味もなく重苦しい気持ちが心の中で飽和状態になった時、いつだってその声は僕の耳に届いていた。
『此方側へ…、』
 声は立て付けの悪い窓枠の隙間をぬって、湿気と一緒に僕の身体にまとわりつく。不快な湿気には閉口したが、声の清々しさはそれを上回って余りある。暫くの間その声の甘美な香に身を任せた。

 ガタン
 誰かが椅子を鳴らすようにして座り直したのだろう、大きな音が教室中に響き、そのせいで僕は手放していた意識を取り戻した。
 わずかに乱れた生徒たちの呼吸が元に戻った時、窓の外の雲の天幕に歪みが現れる。
『此方側へ…、』
 歪みは口腔となり、僕を呼んでいるようだった。



『此方側へ…、』



 僕を呼ぶ声はだんだん強くはっきりとしてくる。その反対に教師の言葉は途切れ途切れになり、ノイズになり、そして消えていった。




 あの雲の向こう側には本当に青空があるのだろうか…。
 重力にしがみついて生きる僕たちには想像もつかない世界。其処はなにものにも閉ざされる事無く、鋭利な感覚を剥き出しにしたままの冴えた空間なのだ。
 其方側に行けば僕のすべては凛とした何物かに解き放たれ、光る闇の中を漂う事ができる。
 そう思った瞬間、這うように垂れ込めていた何重もの雲が僕の視界から消えた。肌に触れた窓ガラスは、思ったとおり生温かった。



 授業の終わりを告げる鐘の音が耳の奥で鳴った。
 僕は今、此方側にいる。






‥了
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