「禽(とり)は如何ですか、」
 突然の声に振り向いた先には、季節感の無い黒い外套を羽織った男が座って居た。路上にくすんだ絨緞を敷いて、自身は古いが型の良い、使い込まれた革の旅行鞄に腰を下ろしている。
「禽は如何ですか、」
「……禽、」
 繰り返された言葉につられるように、僕もまた『禽』を口にする。正面に見た黒外套の男がにんまりと笑った。
「ええ、禽です。禽は良い。羽毛は天鵝絨(びろうど)のように艶やかで柔らかく、そして囀(さえず)りは鼓膜にゆるりと波紋を描くように響く。」
 男は恍惚とした口振りで、とうとうと謳(うた)い上げる。その間中、僕は身動きする事も無く、云い慣れた常套句を使う彼をただ見据えることしかできなかった。
 本来なら立ち去るべき状況だった。露天商が舗(みせ)を構えるには入り組んだ路地である。現に今、僕以外にこの路を通る者は居ない。こんな所で舗を出しても儲かるどころか意味すら無いだろう。それなのに男の周りの違和感に惹き寄せられる。
 黙って立ち尽くす僕を下から見上げる男の口角が、左右に引き上げられた。
「禽は要らないか、とお尋ねしているのです。勿論、御代は頂きません。」
「……禽なんて、何処にも居やしないじゃないか、」
 薄汚れた絨緞の上には禽の姿だけじゃなく、禽籠も見受けられない。
 気の触れた彷徨人に担がれたのかと思った僕は、漸く何事も無かったかのようにこの場を去る決心がついた。
 振り返りざまに視界の隅に男が立ち上がったのが見える。一瞬身を竦めて足が止まった僕をまるで無視して、彼は自分が座っていた旅行鞄を絨緞の上に倒した。
 ベルト式の止め具を外し、中を物色し始める。態と見せ付けるように鞄の中の擦り硝子の薬品壜を宙に掲げた。色とりどりの親指の先程の鉱石が、壜の中で重なり崩れて、硬質の音を立てる。聴覚と視覚が捉えられて、僕はまた、其処から動けなくなってしまった。
「御心配には及びません。禽なら、ほら此処に、」
 壜の腹に貼り付けてあるラベルを確認して目的の物を見つけたのか、指先で蓋を抜いて掌に中身を転がす。小禽の卵くらいの透明石膏(セレナイト)が内側に秘めた月光で、仄白く発光した。

 鼓動で躯(からだ)が震える。

「今夜は月が麗しい。月の黄水晶色を多く注げば、檸檬色の鮮やかな金糸雀(カナリア)が羽化する筈です。」
 親指と人差し指で透明石膏を挟み、僕の目線に合わせて掲げる。無色透明な鉱石の向こう側の風景が視通せない。先の透けない事への不安より、好奇心が上回った。

 鼓動が頭の奥で鳴る。

「今宵の月光です。今日の月齢の月と貴方の体温。そのどちらもが欠けては成りません。良いですか、」
 男が僕の目の高さから無防備に落とした卵を両手で掬う。月明かりと氷を連想する澄明なそれは、何故かとても温かかった。

 僕以外の鼓動を聴く。

 我に返って戻した視線の先に、滑らかな黒い毛並みの猫が通り過ぎる。同時に全身に感じる鼓動に目を瞑った。





 次の胎動で僕は透明石膏の殻を毀せるのだろうか。






‥了
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