貴方を見つめすぎて、

 僕は僕を見失う。





 屋敷と外界とを分け隔てた密な垣根を抜け、独り佇む彼の待つ部屋に向かう。庭に面した縁台とその奥にある開け放たれた障子。今日もまた睡蓮鉢から開いた花の香りが漂ってきた。
「唯今戻りました。」
 そう云って沓脱ぎを越え、敷居の前で少し待つ。
「御帰り。」
 良く透る彼の声が僕を招き入れた。
 部屋の真ん中に、もうずっと敷いたままの寝具。その上に上半身を起こして独り佇む彼は、限りなく静謐で孤高だ。
 僕はまず、彼の脇を擦り抜け枕元の睡蓮鉢へ寄り、彼の欲する<生>を捧げる。
 部屋から出ることのできない彼と、外の世界を繋ぐ為のみに存在する僕。随分前から毀れてしまった彼の微笑が、僕を捉えて離さない。



 キミ ガ タメ ニ



 睡蓮の花の底へ沈んでいく其れと目が合ったような気がしたが、僕にとってそんな事はどうでも良い事だった。
「おいで、」
 彼に呼ばれて傍らに座る。途端に抱き寄せられ、長く華奢な指先が僕の背を辿った。
「……あ、」
 声を上げる僕の頤(おとがい)を持ち上げ、静かに頬を寄せる。白磁の彼の頬が朱に穢れた。綺麗にしたつもりだったが、どうやらまだ汚れていたらしい。僕は項垂れて、目を伏せた。
「気にする事は無い。僕が望んだのだから。」
 優しく儚い笑みをその薄い唇に乗せ、僕を見下ろす。しかしその瞳には僕は映らない。



 ヌルイ キオク ノ ナカ



 僕の中の忘れられない消滅への恐怖が蘇った。
 冷えていく指先が僅かに震えている。失せ逝く光。僕の唯一。
「君は僕の唯一だよ。」
「逝ってしまうのですか、」
 僕の問いに応えは無く。其処にはただの空虚な空間が存在するだけ。細く頼りない呼吸すら感じられなくなっていた。
 四角く切り取られた天(そら)に溶け込む彼の意識が、最期に僕に届く。



 アリガトウ

 ボク ノ キボウ ノ ヒカリ



 もう二度と睡蓮は咲かない。






‥了
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