一学期が終わる今日。ついていない事に日直の仕事が当たり、これから始まる夏期休暇の予定を立てるべく、早々に帰宅していく級友たちを職員室前の廊下で見送らなければならなかった。靴を履くのもおぼつかない足取りで駆け出す級友らを見て、僕も早く彼との予定を立てなければ、と自然に足取りが軽くなる。確かまだ教室に残っているはずだ。
 彼、綺良(きら)は僕の幼馴染で何をするのも一緒、勿論、夏期休暇の予定も毎年必ず一緒に立てていた。
 今年も一緒にペルセウス座流星群が見たい。僕の天体望遠鏡(テレスコォプ)で。ペルセウス座を見つけられない僕の為に経緯儀(セオドライト)で彼が探してくれる。
「もう、機嫌は直っただろうか……。」
 階段を駆け上りながらそんな事を思う。何故なら綺良は今年度が始まって以来、僕に対してよそよそしい態度をとり続けていた。話し掛けても返事はなく、彼から話し掛けてくる事もない。何か僕に不手際があったのかと悩んでみたが、全く思い当たる節がなかった。

 一瞬の躊躇いで足は止まってしまったが、何としても今年も彼と過ごす予定をとりつけなければならない。何しろ綺良は学校でも知らない者はいないというほどの人気の有る少年で、誰もが彼との夏期休暇を狙っているのだ。今までは自然に僕との予定を優先していてくれたようだが、今年は綺良の僕に対する扱いをみんなが知っているのだから、先約があってもおかしくはなかった。
 いやな想像を掻き消すように、僕は止まっていた足に力を込め、階段を上り出す。



 開け放たれた教室のドアの向こうに綺良の姿が見える。僕は彼が残っていてくれた事に安堵して声を掛けようと口を開いた。しかし、僕の口から漏れたのは声ではなく不安を煽り立てる空気だった。
 教室の中の綺良は僕の姿を認めると、その琥珀色の瞳に冷たい氷の光を浮かべ、唇の片方の端を少し持ち上げて見せる。その時初めて綺良が一人でない事に気がついた。
 綺良は、彼の向かいに座っていた僕の知らない少年に向き直ると、少年の顎を指で持ち上げる。二人の顔が重なった。何をしているのか想像できたが、僕は今立っている自分の場所に心底ほっとしていた。実際に綺良が何をしているのか見えないからだ。
 そう思ったのも束の間、綺良は顔を重ねたまま、徐々に身体を動かし、僕に事実を見せつけてきた。綺良の唇は少年の唇を覆い、時々洩れる少年の吐息をぬって、綺良の舌は内部を侵す。激しいキスで少年の自我はもう無いように思えた。

 ……!

 心臓が今までに無いほどの音をたてる。その音が聞こえたのか、少年はようやく僕に気づくと突然正気に戻ったように綺良を軽く突き飛ばすと僕のよこを駆け抜けていった。大げさに身体を逸らした綺良は何事も無かったかのように僕を見る。
「羽瑠(はる)が邪魔をするから、彼に嫌われてしまったじゃないか。」
「え、あ、……。」
 鳴り止まない心臓の音が気になって、僕は返事ができなくなっていた。やっぱり彼は僕を嫌っているのだ。その事実だけで情けない事に声も出なければ涙もでない僕は、綺良の強く射るような視線でその場に動けなくなっていた。
「どうしてくれるの、」
 感情の読めない薄い声が浴びせられる。僕にできることは、無い。
 俯き、立ち尽くす僕の前に綺良は立っていた。僕より背の高い彼はその体温で僕を圧迫している。心臓の音の意味を彼に伝えられたら、こんな目にはあわないのだろうか。
「どうしたら……、」
 ようやく絞り出した声は綺良の細く長い指で遮られる。
「君がさっき彼の代わりをしてくれるの、」
 救済の意味を履き違えていたのか知れない。でも、それで彼の気が済むのなら、それでよかった。
「僕で、よければ。」
 綺良は僕がそう言うのを初めから知っていたかのように唇の片端を上げて笑う。
「じゃあ、来て。」
 そう言うと僕の手首を掴んで教室を出ていく。僕は言われるが侭に彼に付き従った。心臓の音が変わり、僕の奥で何かが安堵している。



 真夏の香が漂う校舎の屋上で、僕は初めて綺良の唇を感じた。彼の唇は優しく、そしてひんやりとしていた。
 僕はキス自体初めてで、どうしたら良いのかも分からず、ただ綺良の気分を損ねないようにじっとしている他なかった。これ以上彼の気分を害してはいけない。この行為はさっきの少年に与えられるべき行為なのだから。

 喉の奥に流し込まれる温かい激情の液体は、今までの綺良ではない何かを含んで僕の中に溜まった。

 幼馴染で親友であった綺良はいない。でも頭の芯がとろけてきそうで、離されたくない、と思う。

 彼は唐突に唇を遠ざけると濡れた唇の片方の端だけを少し上げて笑った。再び彼の顔が近づくと、僕は甘い恍惚を思い出して目を閉じていた。しかし彼の唇は僕の唇を避け、首筋を下から上へとなぞる。膝の力が抜ける僕を綺良は強く抱きしめた。耳朶に触れる唇は確かに僕に向けられている。

「夏期休暇が終わったら、羽瑠は僕のものになる。」

 手放しかけていた意識のせいで、綺良が何を言っているのか分からなかったが、僕の体温は太陽の投げ掛ける日差し以外の力で僅かに引き上げられた。








‥了
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