春と呼ばれる季節にしては、蒸し暑い早朝。
 昨日までの雨でぬかるんだ地面から立ち昇る水蒸気が、まだぼんやりとした太陽光線にゆらゆらとその身を預けていた。しかしその光線の端々には、今日のこれからの日差しの強さが垣間見える。
 春と初夏の間の時間。
 まどろみから覚醒へと流れる体内時計の律動を、僕は静かに感じていた。


 ざわざわと騒ぎたてる風が、僕の隣りに生まれた空白の場所を通り抜ける。
 いつから僕はその意識を手放していたのだろう。もしかするとそうではなく、彼が消えいくさまを自分で記憶から排除したのではないだろうか。手を伸ばす事もできずにいた自分を正当化するために。
 どちらが事実でも構わない。現実に僕は残り、君は消え、そして記憶は痛い。




 ここから夜空を見上げるのが好きだった。凛と冴え渡る空気の中で、満天の星々の囁きに耳を傾けるのが気持ち良かった。
 ここから街を見下ろすのが好きだった。途切れる事のない人間(ひと)たちの創り出した遠音に身体を預けているのが心地良かった。

 でも。
 夜空も嫌いになるかもしれない。
 遠音も騒音になるかもしれない。
 君が隣りにいないのなら。
 僕が独りでいるのなら。




 出来ることならこの水浅葱の景色に、消えてしまった君の容姿(かたち)を忘れないように書き留めたい。
 君の伸びやかでしなやかな腕。日向の匂いのする髪。
 時間が記憶を押し流しても、僕が君を見つめ続けられるように。


 朝の月。
 宇宙(そら)の残像が僕を見下ろしている。





 街の外れにある小さな丘が若草色に輝いている。昨日までの春の嵐は植物たちのあらゆる活動を呼び起こさせた。芽吹く木々。大きく呼吸する下草。全てが生命(いのち)に満ち溢れているようである。
 しかし一箇所だけ茶色く抉り取られた場所があった。大量の雨と風に地盤が悲鳴を上げ、崩れ去ったのだ。
 土砂崩をなんとか免れた1本の若い樹の根元からは、ゆるゆると土混じりの雨水が流れ出していた。雨水は剥き出しの土の上に溝を彫りながら丘を下っていく。そして行きつく先には伸びやかに枝を張り、若葉をいっぱいに茂らせた樹が横たわっていた。






‥了
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