数日間、雪に成りそびれた冷たい雨が降り続いた。此れが雨水かと毎日天を仰いでみたが一向にそうと感じない。暦はやはり少し急ぎ足だと思った。
 夜半から急に雨と風が強くなり、窓硝子を激しく打ち鳴らしている。蕾を付け始めた庭の木の枝が、悲鳴のような音を立てながら風に翻弄されていた。
 しかし雨は季節を進めたようで、寝台の脇の窓から差し込む朝日が暖かい。枕元の時計はいつもより早い時間を指していた。身体を起こすと窓に掛かった薄い紗の窓掛けがふわりと膨らむ。いつの間に開けたのか、薄く開いた窓の外から甘い薫りが漂ってきた。気が付けば寝台の脇に少年が一人、佇んでいる。
「誰、」
 そう声を掛けると彼は少し不思議そうな表情で僕を見つめ、それからゆっくりと頸を巡らし周囲を見やる。自分に掛けられた言葉だと思い当たったようで、漸くその小さく紅い唇を開いた。
「ああ、」
 零れた声音には驚嘆が混じっている。むしろ驚いたのは此方の方だ。
「何時から其所に、」
 僕の問いに、彼は少しだけ肩を竦めて溜息を吐く。
「君が往かないから、僕も逝けないのさ。」
「え、」
 言葉の意味が理解出来ない。ただ、彼の声音には小さな棘と少しの憐れみが在るのは解った。
「花信風が吹いただろう、そんな時節だからね。」
「時節、」
「ああ、もう啓蟄だ。直に桃が咲く。」
 桃の花が咲く。白く硬化した世界が融け、柔らかい日差しと草木が萌え始める世界へと移ろっていく季節なのだ。
「小夜嵐が君を急かしているんだ。その所為で此処まで飛ばされたという訳さ。」
 そう云って君は細く尖った指先で僕の頤を取り、額を寄せる。甘い薫りに僕は反射的に目を閉じた。唇に触れる君の温度。
「そろそろ逝くよ、」
「……っ、」
 唇の端に小さな痛みを感じて瞼を開く。
「ああ、」
 思い出した、僕の事を。僕は疾うに往かなければならなかったのだ。
 自分の指で痛みの元に触れるとぬるりと紅く染まった。僕の足元には寝台すらなく、傍に居た君も居ない。少し赤みの差した表皮に棘のある小枝だけが落ちていた。
「梅、君が知らせてくれたんだね、」
 紗の窓掛けは乳白色の霞となって宙に融け、浅葱の風にはたりと落ちる僕の紅。濃紅梅色をした道知辺の花弁がひらりと舞い降る。最後の梅が二輪、並んで落ちた。



 冬が往き、温度を伴う春がやって来る。





…了

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