室内は薄っすらと雲の掛かった月明かり程度の明るさしかなく、奥にある水槽の中の液体が自身で発光し、蠢きながら壁や天井、床にまで影を落としている。
 寝台の上で覚醒した僕は真っ直ぐに水槽へ向かい、屈折率の大きい厚い硝子越しに液体の中を浮遊する真珠色の気泡を眺めた。
 目の前を昇って行く幾つもの真珠を数え終えると、僕は外へ出る。



 重く冷たい無機質の扉の内と外とでは、全く世界が違う。室内に音は無いが、扉が開いた瞬間に耳鳴りのような耳障りな音が全身の神経を逆撫でていく。
 そして一粒ならば視覚で認識できないほど微粒子な砂が、量を伴って景色を覆い尽くしている。其処に有る物は其れが何であれ、僅かな時間で形すら判別できない程に溶け出してしまう。だから、外には何も無い。在るものは彼の住いと・・・・・



「やあ、」
 彼の肺に負担を掛けない様に素早く扉を閉める。大きな背凭れ椅子に身体を預けたままの姿勢で彼は其処に居た。
 見えない彼の視線は宙をさまよい、僕を凝視する事は無い。其れが僕にとっては心地良い。
 一瞬見せた首筋の緊張が解け、彼は大きく呼吸すると口元の端を僅かに上げた。
「具合はどう。」
「今日は気分が良いな。鰓もそんなに痛くない。」
 そうは言っているが、彼の具合が悪いのは明らかだった。白皙の皮膚には温度が無く、椅子の背凭れと同化してしまったかの様に身体の何処も動かない。しかしわざわざ其れを自覚させる事も無いので、僕は彼の方を見ないまま彼の傍へ歩み寄った。
「それならば、いい。さあ、今日の分。」
 僕はゆっくりと彼の座る背凭れ椅子の背を倒すと、持ってきた紫水晶(アメジスト)の飾りのついた銀製の薬箱(ピルケエス)を取り出す。中には何時の間に入ったのか砂と、白く光る真珠の粒が入って居る。薬箱を開ける僅かな金属音を合図にして、彼は背凭れに深く沈み込むと目を伏せた。
 ケエスの中から真珠の粒を一粒抓み、白く細い彼の首筋に在る薄紅色の鰓に落とす。未だ生きている事を証明する体温が真珠を融かし、鰓の奥へと染み込んでいく。薄紅色が瑞々しく潤うのと同時に、彼は一瞬身体を痙攣させ、「あ、」と息を漏らした。
 暫くすると彼の頬に温度が戻り、凭れていた椅子の背から起き上がろうとする。咄嗟に伸ばした手を握る彼の手は確かに温かみを増しているように思えた。


「水人形は、今も泳ぎ続けているのだろうか、」


 背筋を真っ直ぐに伸ばして座る彼。そして僕では無いものを見つめながら呟く様に言った。





 僕が彼の住いを後にする頃には、彼は再び椅子に身体を預けていた。
 視界を覆う砂の風は僕のあらゆる器官を麻痺させようとしている。改めて外套を被り直すと、重い衣擦れの音に混じって水音が聞こえた。僕は視覚を閉ざし、聴覚と臭覚で辺りを見渡す。少し歩くと、水の涌き出る音と冷たい空気が漂う場所に着いた。
 両手を広げた程の大きさの水晶の珠が宙に佇んでいる。よく見ると其れは水晶ではなく、無色透明の水の様だ。液体がそのまま球と成り浮かんでいた。水の中には水人形と呼ばれる流線型で体表は硬質で滑らか、セロファンのような光沢の在るものが居た。
 僕の仕事は其処から水人形を取り出し、それを件の水槽に入れる事によって創り出される透明な酸素を生きている物に分け与える事だ。何故そんな事をしているのかには興味は無い。まして、何故水人形や水の球が在るのかすら分からない。徒、今僕が酸素を配っているものは彼だけであるという事のほうが、重大だ。
 彼の存在が無くなった時、一体僕はどうなるのか、しかし其れさえも考える事は無意味である。僕が存在する限り、僕は同じ事を繰り返していく。永遠に、










 何時もの様に砂が煙る中を彼の住いへと辿り着く。
 背凭れ椅子に横たわったままの彼の姿は放り出された操り人形のように力無かった。声を掛けても返事は無く、徒、幽かな吐くだけの呼吸が不規則に続いている。
 薬箱の涼やかな金属音すら、瞼に不快感を顕わしている。紫水晶の透明な飾りの内側に乳白色の影が見えた気がした。
「ほら、今日の分。」
 僕は出来るだけ彼に不快な想いをさせない様に、静かに、空気すらも動かさないようにそっと鰓の中に真珠珠を落とす。薄桃色の鰓は異物の浸入を拒んだ。低い体温では、真珠を融かす事が出来ない。其れは彼が肺に酸素を取り入れられ無いという事だ。
 月の明かりの様な白さの彼の首筋に、薄桃色の鰓。其の中心に真珠が一粒在る様は、首に儚げな一輪の花が咲いている様である。其の花に吸い寄せられる様に僕の唇は彼の鰓を覆い、舌先で真珠を転がした。僕の体温で真珠は鰓の中で融け、乾きつつあった彼の肺を僅かながら満たす。乱れていた呼吸に落ち着きが見られ、重たそうな瞼を開けると、目えない視線を僕に向けた。


「水人形は、何故其処に居るんだろう、」


 溜息の中に彼の声が聞こえた。










 室内は薄っすらと雲の掛かった月明かり程度の明るさしかなく、奥にある水槽の中の液体が自身で発光し、蠢きながら壁や天井、床にまで影を落としている。
 寝台の上で覚醒した僕は真っ直ぐに水槽へ向かい、屈折率の大きい厚い硝子越しに液体の中を浮遊する真珠色の気泡を眺めた。
 目の前を昇って行く幾つもの真珠を数え終えると、僕は外へ出る。





 永遠に繰り返される僕の仕事は、水人形と呼ばれる砂の上に浮かぶ水の中に生きるものを取り出し、件の水槽で透明な酸素を創り出す事だ。
 また、何処かで水音が聞こえる。僕の頬を清らかな水分を含んだ風が触れた。其処には大きな背凭れの付いた椅子が横たわり、椅子の脇には水の球が浮かんで居る。透明な水の中で泳ぐ水人形は薄桃色のセロファンの色合いだった。






‥了