鉄の臭いのする風。腐敗した金属が崩れながら足掻くように流れる。耳を澄まさずとも、鉄同士が擦れ合ってあげる耳障りな悲鳴が聴こえた。
 もうこの邑(むら)も長くはない。時機にただの鉄錆となる。窓枠の隅に積もる赤褐色の粒子を眺めて、僕はこの世界の異変を感じていた。
 全ての元凶はあれに在る。
 水人形。
 透明なセルロイドの皮膚。流線型の滑らかな容(かたち)。襞を寄せた紗の布のような豊かな鰭。
 この世界で僕たちが生活するために必要な体制(システム)である水人形たちは、工場(ラボ)で製造され、宙(そら)に放たれる。宙を群れもしくは単体でたゆたい、世界を浄化し、そして溜めた汚濁に飲み込まれて絶えて逝く。ただ、それだけの存在。
 或る時、天(そら)に土色が混じりだした時期と重なるようにして、鉄錆の風が吹くようになった。水人形は宙に放たれる時には既に澱を内包し、溢れる汚濁がその風に乗って蔓延する。

 世界は疲弊し、歪み、破壊している。
 水人形は不浄で、溶解し、破壊している。

「彼は……、」
 唐突に『彼』の存在を思い出す。
 『彼』。
 この崩壊した世界の中で、唯一の『彼』。『彼』は今でも涼やかな笑みを薄い唇に乗せ、生き物のように発熱する無機物に囲まれながら在るのだろうか。







「僕を停止(と)めて欲しい。」
 冷たい唇が僕の耳元でそう告げる。ひやりとした吐息に煽られ上半身を起こすと、寝台の脇に彼が佇んでいた。
「君、は……、」
 僕の声に彼はゆっくりと寝台に腰を下ろした。僕の問いには答えない。両の口角を上げ静かに微笑むと、片手に体重を掛け、僕の方へ身体を傾ける。すぐ傍に居る筈の彼の体温が感じられない。等身大の球体関節人形を間近で見た感覚。吸い込まれそうな黒曜石の瞳に眩暈がした。
 身体の自由が利かず、再びシーツに押し倒されるように背を預けると、彼は僕の肢の付け根の辺りに跨り覆い被さってくる。膝で腰骨を固定されて、ますます身動きが取れなくなった。
「停止(と)める術は幾つか有る。」
 淡々とした口調を紡ぐ薄く容良い唇が近付く。
 艶のある漆黒に落ちる長い睫の影。発光する虹彩。
 呼吸を忘れて彼の唇を僕の其れで受けた。全身がざわめく。
「此処を塞いで外部からのエネルギィを絶つ。」
「……ふ、はあ……、」
 無意識に大きく息を吐く僕の視界では、柔らかそうな黒茶の髪が揺れていた。頭で理解するよりも早く、身体が反応する。
「あ……、」
 息を呑むごとに上下する頤に冷たい湿った感触。彼の舌先が首筋を横に辿る。
「此処を寸断して内部のエネルギィを流失させる。」
 やけに鮮明な彼の言葉が朦朧とした僕の頭に届いている。僕は頭と身体が別の感覚神経を使っているような、そんな気さえしてきた。
 いつの間にか寝間着の釦が外され、袷が肌蹴ていた。頤を這っていた彼の舌が鎖骨を通って順に進む。鳩尾の手前に到達した感触が変化し、きつく吸われた。
「ん、」
「一番確実な方法は、」
 知らずに瞑っていた目を開けると、正面に彼の顔。今胸に在るのは彼の指。
「此処を破壊し一切の再生を根絶する」
 指先に力を込め、強く押す。一度鼓動が大きく鳴った。
「君に停止(と)めて欲しい――。」
 彼は極あっさりと僕の上から退き、最初に見たときと同じにひっそりと佇む。僕は鉛のように重く寝台に沈む身体に、意識を引き摺られていった。










 窓を叩く鉄の粒子の音で目が醒める。瞼が重い。薄く覗く視界には見慣れた部屋の中が在り、案の定、彼の姿はない。
「……夢……、」
 たとえばそんな事が在る訳も無く。肌蹴た寝間着の袷から見える素肌に、くっきりと残る花弁のような薄紅の鬱血。指先で触れると、ちりと痺れるような気がした。
 現実であった事に疑いがなく、重い頭を起こすためにシーツについた肱に違和感。慌てて手を伸ばすと指にざらついた感触と赤銅色の鉄粉がまとわりついた。
「彼を停止めなければ、」
 僕は外套を羽織ると部屋を出る。ぬるりとした水人形が頬の横を通り過ぎていった。










 そこは邑の外れに在った。
 誰もがこの場の存在は知っていても、ここに触れることはない。そこはあくまで不可侵。体制(システム)としての水人形は僕たちそこに棲むものが如何こうできるものではないのだ。彼以外は。
 風で舞う金属の粒子は厚い外套の隙間から縦横無尽に入り込む。皮膚に直接触れる鉄粉は、生温い温度の中できん、と冷たく響く。同系色の世界を歩く僕に正気を取り留めてくれていた。
 工場(ラボ)は突然、その姿を鉄錆の風に煙らせて現れる。
 建物の外壁を緑青のパイプが有機物のように這い回り、朽ちている工場を覆い尽くす。絡み付くパイプ群に絞め殺されたコンクリートの塊は、呼吸を停止してひっそりと骸を晒していた。
 踏み締める足元の砂は緩く、入口を捜す僕の靴を惑わせる。頭からすっぽりと被った外套の所為で視界は悪く、目的地を見せても尚、拒んでいるようだった。
 突然、鉄錆の風が止む。耳に慣れてしまったノイズが途切れる。目の前に大きな鋼鉄の、そして赤く錆びた扉がそびえていた。
 薄っすらと開いた扉の中から腐臭が流れ出している。彼の乾いた笑い声が聴こえた気がした。
「何をしに来た、」
 声は別の場所から反響して伝わる。しかし思いがけず背後から白く長い腕が、僕の首に絡んだ。尖った肘が肩の上に乗る。背中に張り付く彼の体温は工場の温度と同質で、僕より少し高く感じた。もしかすると本当は、僕の体温だったのかもしれない。
「君はこの世界を毀すつもりなの、」
 抱きすくめられたままの姿勢で少し首だけを後ろに向け、彼の気配に訊ねる。彼は僕の問いにくつくつと笑った。吐息が耳の後ろをくすぐる。
「何故、僕がそんな事をしなければならないのかい、」
「君が水人形を腐らせているんだろう、」
 彼は心底驚いたように一瞬身体を強張らせると、僕を捉えていた腕を解いた。
「体制が毀れてるのか、まさか。」
 虹彩を判別できない黒曜石の瞳が、僕を正面から見つめる。本当に水人形が腐敗しているのを知らなかったのだろうか。僕の云う事が信じられないのか、彼は二、三度大きく瞬きをした。
 長い睫が伏せられると、温度が変わる。
「本当に停止(と)めに来てくれたんだね。」
 昨夜の『彼』だ。伴う冷気がそれを告げていた。
 ゆっくりと伸ばされた長く細い指先が、僕の頤を滑り、捉える。その冷たさに背筋が跳ねた。背中に意識がある間に、彼の唇は僕の唇を辿っていた。
「此処を塞いで外部からのエネルギィを絶つ方法。」
 止める術も無く、彼の温度に囚われたまま。
「……痛っ」
 肩を引き寄せられ、首をやんわりと咬まれる。
「此処を寸断して内部のエネルギィを流失させる方法。」
 そして……と視線を合わせる彼の手が、外套の袷から鳩尾に触れる。布越しに感じる温度が明らかにぬるまった。
「体制(システム)が毀れる訳ないだろう。あれが毀れたら世界はどうなる、」
 僕に伸ばしていた手をぼんやりと眺め、訊ねる。
「もう世界は崩壊しているよ。」
「だから僕を停止(と)めてくれるんだろう、」
 体温に引き摺られる彼の言葉。
 温度差による潮汐で行き来する彼の存在。 水人形は彼の崩壊に巻き込まれたのだ。
「早く、此処を破壊し一切の再生を根絶し、僕を停止(と)めてくれ。」
 きつく抱き締められる。抗えない。否、この身を任せているのは僕。力なく垂れ下がる僕の手を握り、自らの胸に宛がう彼。
 鼓動とも振動とも取れる波動が掌に伝わる。ず、と内部を犯す。
 脈打つそれを、僕は破壊した。







 僕の中に彼が侵食していく。







‥了
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