「碧瑠璃(ラピスラズリ)の効能を知っていますか?」
 角を曲がった瞬間、突然声を掛けられた。
「え、」
 普段なら路上で声など掛けられても、気づかない振りでその場を去る事ができるのに、この時ばかりはあまりに突然でしかも聴き慣れない言葉の響きにふと足を止めてしまった。
 声の主は黒尽くめの服装の男だ。上等そうな黒い外套は薄汚れていて、元々の価値は想像できないが、何よりも僕の気を惹いたのは、男が腰を掛けていた使いこまれた革の大きな旅行鞄の方だった。
 興味を示した僕をにんまりとした眼で見つめながら、同じことを繰り返す。
「碧瑠璃の効能です。御存知ですか?」
「ラピスラズリの効能…、」
 《ラピスラズリ》は宝石の名前だ。群青色の顔料にもなるほどの青い綺麗な宝石。その宝石の効能って……。
 怪訝そうな顔をしていただろう僕に再びあの視線が浴びせられる。
「『願いが叶う』効能が有るのです。何か叶えたい願いが貴方にも御有りでしょう。」
「いや、べつに。」
 不意をついた質問だからではなく、本当に何も思い浮かばなかった。『叶えたい願い』なんてない。
 男は不思議そうな表情で、僕を黙って凝視した。見つめられるのが恥ずかしいのではなく、『願いがない』という事実が僕を赤面させ、俯かせる。
 僕に聞こえよがしの溜息をつき、「ま、其れでも良いでしょう、」と呟きながら鞄から腰を揚げた。
「御一つ、如何ですか。勿論、御代は要りません。」
 そう言うと、僕の返事などお構いなしに鞄のベルト式の止め具を外し、中を物色し始める。中には格子模様の枠が設えてあり、幾つかの薬品をいれるような硝子の壜が整然と並んでいた。両手で一つずつ壜を取り出し、ラベルを確認している。壜の中にはドロップと見間違える様々な色の宝石や鉱石が入っていた。
 目的の壜を見つける事に成功したのか、カチャカチャと硝子の触れ合う音が止む。男の右手の蒼色の鮮やかなラピスラズリドロップ入りの壜が、太陽の光をはじき返して僕の眼を眩しさが襲う。フラッシュをまともに見た感じで、咄嗟に手をかざす。指の隙間から空の青と壜の中のラピスラズリの蒼が僕の視界いっぱいに広がった。
「一粒舐めれば、どんな願いも叶います。よく御覧なさい。空の色と同じ色です。この空を飛ぶ事だって、碧瑠璃には容易な事です。」



 空色。蒼。青。ラピスラズリの色。
 空を飛ぶ。宙を舞う。透明な風の中。蒼天。



 ……。いや、人間の身体は空を飛べるようにはできていない。たとえその腕が翼であっても、自らの身体を持ち上げる事は不可能。胸の筋肉がそれを許さないのだ。何よりも人間の骨は重過ぎる。鳥のそれのように軽くないからだ。だから空で生きる権利は鳥に譲られたのである。
 でも…。大空を飛びたいと願う感情は、人間の遺伝子が記憶している。螺旋の中に巧妙に入り組んで、飛ぶ事への憧れと羨望として心の中に渦巻く。



「御心配には及びません。口にしても大丈夫な様に有害な成分は取り除いて在ります。味ですか……、この色の通りの味です。薄荷の様な曹達水の様な、舌の上で星が瞬く感じに違い有りません。」
 言葉と同時にかざしていた手のひらに、一瞬ひやりと無機質の冷たさがあった。





 いつから僕はこうしていたのだろう。空の青色に目を細め、かざしていた手を下ろす。肩に重い疲れがあった。長い間、こうしていたのかもしれない。久々に見た蒼天はかぎりなく鮮やかで、俯いてばかりいた僕に空色を思い出させた。
 不意に視界に黒い影が横切る。視線の先で毛並みの悪い黒猫が僕を見返していた。
 手入れをすればビロードの艶やかさがあるに違いないその黒猫は、喉元だけ青色に光らせている。
 よく見ると青色は猫の毛並みとは違う羽毛のようだ。猫は青い鳥を捕獲し、その成果を僕に見せつけてにんまりと笑ったように見えた。
 もう二度と空の中に戻る事のできない青い鳥は、僕と同じように青い空に焦がれるのだろうか。
 何かが舌に触れた。ぴりぴりとした刺激が心地好く、僕の意識は青色の空に溶け出していた。










‥了
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