鬱蒼と茂る森の中に古びた洋館がありました。
 古びたと云えば聞こえは良いですが、それはもう、襤褸と云って差し支えない程で、外壁を覆う蔦が無ければ崩れてしまいそうな代物で御座います。建物よりも酷い有様なのは周囲を囲む煉瓦の塀で、其処此処で歪んだり、崩れたりしておりました。煉瓦柱に挟まれた正面の門扉は固く閉ざされ、真鍮の光沢を失った蝶番は開く素振りを見せません。
 それでも尚、この館が取り壊されませずに存在しますのには、理由が御座います。
 ひとつはこの館に棲んでいる者が居ります事。
 もうひとつは其の者がどのような『願い』でも叶えてくれると謂われている事。
 勿論、叶える為には対価が必要。対価で願いを叶えるなど、悪魔の所業のような話ですが、果たして確かに其所に棲まう者の事を人々は悪魔と呼び、畏れておりました。対価とは願う者の一番大切な物であり、大切と謂う事は其れは命であり、命を賭して悪魔に願いを叶えて貰う。そんな強い願いを持つ人間の業をも悪魔は欲しているのだと。
 この洋館を訪れ、其の者に遭い、対価を支払えば、『願い』は叶う。そう云う言伝の存在が、此の洋館を存続させておりました。
 そしてまた、此の屋敷に向かう者が居ります。――『願い』を叶える為に。



 おや?
 お客様ですか?
 こんな森の奥深くまで、ようこそお出で下さいました。
 此処へ誰かが訪ねてくるなんて、何年振りでしょうか。否、何十年振りかも知れません。もう、記憶が曖昧ですが。
 門の蝶番が錆びていた筈ですが、ちゃんと開きましたでしょうか?
 え?
 ああ、そうですね。
 すっかり酷い有様な煉瓦塀の、崩れた箇所から這入れますね。お召し物を汚してしまったのでは? 御怪我は御座いませんか?
 それはよう御座いました。
 しかし、お顔の色が優れないようにお見受け致しますが、ご気分がお悪いのでは?
 まあ、此処を訪れる方に、顔色の良好な方など今までにも居りませんでしたが。
 ええ、ええ、『願い』が有るので御座いましょう?
 命と引き替えても、叶えたい『願い』が有るので御座いましょう。
 承知しております。
 存じております。
 そうでも無い限り、こんな辺鄙な場所にお越しになる筈が有りません。貴方様方人間は私を、願いを叶える為だけに存在しているとお思いでしょうから。
 確かに私は命を対価に『願い』を叶えておりました。もう、ずっと、長い永い間で御座います。
 こう見えましても私、貴方様の何十倍、否、何百倍と生きておりますので。悪魔が“生きている”と謂うのは可笑しな話ですが、永い間“死んでいた”と申してもなかなか理解し難いと思います故、そう申しました。ああ、どうでも良い事で御座います。
 申し訳ありません。
 久し振りのお客様に私、つい興奮して独り善がりをしてしまいました。貴方様はただ、悪魔と契約を結びに来ただけだと謂うのに、長々と話に付き合わせてしまいました。これも何十年振りかのお客様、会話だったからこそ。ええ、一方的に私が話しておりますので会話と謂うのは憚られます。それにしても何十年振りかに声を発したのは事実で御座います。ご容赦頂ければ幸い。
 さて、本題に参りましょうか。待ち草臥れて、すっかり『願い』の事など忘れてしまわれましたか?
 その程度の『願い』では此処を訪れたりなど致しませんね。成る程、確かに強い『願い』の様で御座います。
 貴方様の『願い』を伺う前に対価の話を致しましょう。
 対価とは『願い』に見合った代償でなくてはなりません。ですから、『願い』の強さで対価の重さも決まります。『願い』が強ければ、貴方様の命を対価に頂く事にもなりましょう。其の覚悟はお有りですか?
 素晴らしい。
 美しい覚悟で御座います。
 しかし、この度の此の契約に於きまして、私が望む対価はただひとつ。
 何、大して難しい事ではありません。寧ろ、『願い』を叶える対価ならば其れしか有り得ないと謂えるに違い有りません。
 それは――、

 私の『願い』を叶えて頂きたい。

 貴方様の願いを叶える対価は、私の『願い』を叶える事、で御座います。
 御承諾頂けますか?
 それもそうです。
 人間の貴方様が悪魔の『願い』など叶えられる筈無いとお考えですね。尤もで御座います。本当に大した事の無い、人間の貴方様なら寧ろ簡単な願いなのですが、感得せざるを得ません。
 では、こう致しましょう。
 私の『願い』を先に申し上げます。其れを聞いた上でご判断下さい。
 但し、ご了承頂けない場合の契約は不成立で御座います。お引き取り下さい。
 宜しいですか?
 思慮深いお方ですね。どうぞゆっくりお考え下さい。
 ご納得頂けましたか?
 では、申し上げます。
 私の『願い』は『森の洋館にどんな願いも叶える悪魔が棲んでいる、という云い伝えを消して』頂きたいのです。
 どうかお願いで御座います。
 『願い』など叶わないと。
 他人に叶えられる己の『願い』など無いのだと、どうか、戻って人々に物語って下さい。
 貴方様方、人間の盲信さえ無ければ、私は逝けるのです。
 この館も朽ち果てて逝けるのです。
 何も無く、亡く、失せて、終(しま)えるので御座います。
 たった独りで存在するには、果てしない程の時間を過ごしてしまいました。もう、赦して欲しいのです。
 先程も申しました通り、既に死んでいる悪魔で御座いますので、死ぬのではありません。本当に、文字通り、消滅致します。これこそが私の『願い』なので御座います。
 如何でしょう?
 嘻!
 なんと謂う事でしょう!
 聞き届けて下さるのですね! 
 あまりの嬉しさに悪魔ですが、神に感謝したいくらいで御座います。
 では私の『願い』を叶えて頂く事を対価に、契約通り貴方様の『願い』を叶えて差し上げます。どうぞ、仰って下さい。
 如何されましたか? 何故そんな哀しげな顔をなさるのです?
 さあ、貴方様の『願い』は?



「悪魔、貴方を愛しています。此の想いを受け容れて欲しいのです。」
 洋館を訪れた其の者は、悪魔の問いにそう、静かにそして凜として答えました。
 その後、『願い』を叶えてくれる森の洋館に住む悪魔の云い伝えは、廃れ、終ぞ聞く事は無くなりました。森に住む悪魔がどうなったのか、誰も知るものは御座いません。言い伝えが無くなった所為で、誰も森の洋館の存在を知らないのです。悪魔が願いを叶えていた事すら、知らないのです。知らないから、確かめに行く事も出来ません。悪魔についても同じくで御座います。
 誰も知らない物語は、誰も知らないままに。



 Ton désir s'est-il réalisé?





FIN
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