照りつける陽は夏のそれだというのに、下草はひんやりとした湿り気を帯びる。留まった湿気は地熱ですぐに温まるが、乾いた風に流されて体感温度を下げていく。暦が夏から秋の装いに移り変わろうとする、季節の境界が曖昧な時季。
しかしすべてが曖昧かと思えば、河原の緑に映える朱色が凄烈に目に飛び込んできた。剃刀花の別名通り、緑色を裂いて点在する彼岸花の群体(コロニー)は、薄い刃のような花弁の一枚一枚までをくっきりと存在させている。鋭利な刃先を何枚も向けられ、冷たい汗が僕の背中を伝った。背中の不快感を払拭する為、天(そら)に向けて大きく伸びをする。秋の深く奥行きのある蒼は、確かに此処での時間が経った事を告げていた。
長い夏期休暇の終わりを、僕はこの何も無い場所で迎えようとしている。博物館も図書館も無いが、清浄な空気だけは有るこの場所。休暇の初めのことを思えば、随分と楽に呼吸する事が出来た。そして一人、いつものように小さな小川沿いの、自然のままの河原を歩く。
「やあ――、」
唐突な声に驚いて、自分の胸を押さえる。動悸が収まるのを待って振り返ると、見た事も無い少年が立って居た。
目元が印象的な人懐こい笑みを浮かべた彼は、僕の緊張など気にもせず、胸に当てたままの手の甲に綺麗な指先で触れた。
「――っ、」
その冷たさに大きくひとつ、心臓が跳ねる。
「そんなに驚く事無いじゃあないか、」
「誰かが居るなんて思いもしなかった。」
「そうかい、」
形の良い薄い唇の両端が引き上がる。逆に目尻が下がるので厭らしくは無く、幼い子供のような笑い方だった。
「なかなか気付かないから、此方から声を掛けてしまった。」
「僕の事を知っているの、」
震える声を抑えて問う。小川の対岸から吹き抜ける冷えた風と、脈打つ鼓動が耳の奥で混ざって障った。
「ああ、知っているとも。僕はその為に此方側へ来たんだからね。」
言葉の意味を図りかねて口を噤む。
僕の事を知っている、僕の知らない彼。僕の為に此処へ来た彼は一体何処から来たというのか。彼は何処に、僕は何処に立っているのか。
彼の後ろに見える川面の細波で、不意に閃く光に目が眩んだ。
「……、」
眩む視界で彼の姿が消えた後、さあ、と霧吹きで吹いたような水滴が頬に掛かる。陽を背にして見る霧雨に微かな虹が映った。
この日は少し肌寒く、紗のように掛かった雲に日差しが遮られている。河原の彼岸花は随分と濁った色を見せ始め、花の後から茂り出す深緑の葉が目立ってきた。河原の風景は鮮やかと謂うより濃い色合いに変わり、確実に秋を迎え入れようとしている。そんな深い色をした視線の先、小川の対岸で黒い翅が草の陰にいくつも並んでいた。
「……蜻蛉、」
僕の呟きが聞こえたのか、休んでいた蜻蛉の群れが風に乗って宙を流離う。漆黒の蜻蛉は、よく見る其れらの翅とは違い少し幅が広く、蝶のようにひらひらと舞っている。ぽつりぽつりと灯る燈籠花を背景に、列を為して飛ぶ様は葬列を思い起こさせた。
「極楽蜻蛉と謂うのだって、」
いつの間に傍に居たのか、この前の少年が同じ方向を見ながら云う。僕は驚く事も忘れて、目の前のしめやかな画に見入っていた。
「葬列の往く先が極楽なら、救われる。」
独りごちる僕の声を拾い上げ、彼は此方に向く事無く静かに告げる。
「彼等は先遣りだよ。」
「先遣り、」
僕の問い掛けに、漸く彼は僕の目を見た。少し上がり気味の目が冷ややかに細められる。
「――呼ばれるんだ。」
「何に、」
流れる水さえもが息を止めて静まり返る。無言と無音と彼の瞳が僕を射竦め、肺が凍ったように締め付けられた。
「ただの羽黒蜻蛉だ。水際を群れて飛ぶだけだよ。」
低く吐き出された彼の台詞が全てを元通りに動かし、向こう側を相変わらず、羽黒蜻蛉がゆったりと漂っていた。ぼんやりと眺めていると日暮れの急な風が蜻蛉の列を乱し、僕の体温を奪っていく。
「じゃあ、また、」
耳元に吐息と声が届き、下がった体温と共に身体を震わせる。俯いて抱き締める自身の身体。ふと見ると靴の爪先に羽黒蜻蛉が一頭、留まっていた。
朝からさらさらと絹の糸のような細い雨が降っている。雲が薄い所為で天(そら)は明るく、糸引く雨は光を反射していた。
河原は白く靄が掛かり、小川の位置すら判断できない。此岸と彼岸の境界を見失いそうだった。
「そろそろ、ゆこうか、」
煙って融けた景色の中で、彼の姿だけが鮮明に浮かび上がる。
「何所へ行くの、」
引き攣れた咽から辛うじて発せられた声は、僕の声のような気がしない。
「君はただ僕に、ゆく、と云ってくれさえすれば良い。」
紅い唇が笑みの容(かたち)を作り、とても優しい声音が耳に心地好い。同時に差し出された彼の手を、僕は何の躊躇いも無く握っていた。
「あ……、」
足許の羽黒蜻蛉の翅の金属質な光沢に、雨粒が受ける光が乱反射する。両手で顔を覆った時には既に遅く、虹彩への光の効果で意識が引き摺られた。
今居る場処は、此岸か彼岸か。
「ずっと待って居たんだ。」
生温い風が川面を走り、直ぐ傍を吹き抜けて彼岸花を揺らす。無数の朱色の花弁が僕を搦め捕り、足を掬われた。視界が反転を繰り返し、自分の立ち位置を見失う。激しい眩暈と息苦しさが僕を襲った。
ゆっくりと目蓋を開くと、天(そら)からは天気雨が続いている。失った手の感触を探していると、凪いだ水面を並んで渡る、幾つもの幽かな青い燐光の列。最後尾の彼が目を細め、にんまりと笑った。
「君を、だよ。」
…了
しかしすべてが曖昧かと思えば、河原の緑に映える朱色が凄烈に目に飛び込んできた。剃刀花の別名通り、緑色を裂いて点在する彼岸花の群体(コロニー)は、薄い刃のような花弁の一枚一枚までをくっきりと存在させている。鋭利な刃先を何枚も向けられ、冷たい汗が僕の背中を伝った。背中の不快感を払拭する為、天(そら)に向けて大きく伸びをする。秋の深く奥行きのある蒼は、確かに此処での時間が経った事を告げていた。
長い夏期休暇の終わりを、僕はこの何も無い場所で迎えようとしている。博物館も図書館も無いが、清浄な空気だけは有るこの場所。休暇の初めのことを思えば、随分と楽に呼吸する事が出来た。そして一人、いつものように小さな小川沿いの、自然のままの河原を歩く。
「やあ――、」
唐突な声に驚いて、自分の胸を押さえる。動悸が収まるのを待って振り返ると、見た事も無い少年が立って居た。
目元が印象的な人懐こい笑みを浮かべた彼は、僕の緊張など気にもせず、胸に当てたままの手の甲に綺麗な指先で触れた。
「――っ、」
その冷たさに大きくひとつ、心臓が跳ねる。
「そんなに驚く事無いじゃあないか、」
「誰かが居るなんて思いもしなかった。」
「そうかい、」
形の良い薄い唇の両端が引き上がる。逆に目尻が下がるので厭らしくは無く、幼い子供のような笑い方だった。
「なかなか気付かないから、此方から声を掛けてしまった。」
「僕の事を知っているの、」
震える声を抑えて問う。小川の対岸から吹き抜ける冷えた風と、脈打つ鼓動が耳の奥で混ざって障った。
「ああ、知っているとも。僕はその為に此方側へ来たんだからね。」
言葉の意味を図りかねて口を噤む。
僕の事を知っている、僕の知らない彼。僕の為に此処へ来た彼は一体何処から来たというのか。彼は何処に、僕は何処に立っているのか。
彼の後ろに見える川面の細波で、不意に閃く光に目が眩んだ。
「……、」
眩む視界で彼の姿が消えた後、さあ、と霧吹きで吹いたような水滴が頬に掛かる。陽を背にして見る霧雨に微かな虹が映った。
この日は少し肌寒く、紗のように掛かった雲に日差しが遮られている。河原の彼岸花は随分と濁った色を見せ始め、花の後から茂り出す深緑の葉が目立ってきた。河原の風景は鮮やかと謂うより濃い色合いに変わり、確実に秋を迎え入れようとしている。そんな深い色をした視線の先、小川の対岸で黒い翅が草の陰にいくつも並んでいた。
「……蜻蛉、」
僕の呟きが聞こえたのか、休んでいた蜻蛉の群れが風に乗って宙を流離う。漆黒の蜻蛉は、よく見る其れらの翅とは違い少し幅が広く、蝶のようにひらひらと舞っている。ぽつりぽつりと灯る燈籠花を背景に、列を為して飛ぶ様は葬列を思い起こさせた。
「極楽蜻蛉と謂うのだって、」
いつの間に傍に居たのか、この前の少年が同じ方向を見ながら云う。僕は驚く事も忘れて、目の前のしめやかな画に見入っていた。
「葬列の往く先が極楽なら、救われる。」
独りごちる僕の声を拾い上げ、彼は此方に向く事無く静かに告げる。
「彼等は先遣りだよ。」
「先遣り、」
僕の問い掛けに、漸く彼は僕の目を見た。少し上がり気味の目が冷ややかに細められる。
「――呼ばれるんだ。」
「何に、」
流れる水さえもが息を止めて静まり返る。無言と無音と彼の瞳が僕を射竦め、肺が凍ったように締め付けられた。
「ただの羽黒蜻蛉だ。水際を群れて飛ぶだけだよ。」
低く吐き出された彼の台詞が全てを元通りに動かし、向こう側を相変わらず、羽黒蜻蛉がゆったりと漂っていた。ぼんやりと眺めていると日暮れの急な風が蜻蛉の列を乱し、僕の体温を奪っていく。
「じゃあ、また、」
耳元に吐息と声が届き、下がった体温と共に身体を震わせる。俯いて抱き締める自身の身体。ふと見ると靴の爪先に羽黒蜻蛉が一頭、留まっていた。
朝からさらさらと絹の糸のような細い雨が降っている。雲が薄い所為で天(そら)は明るく、糸引く雨は光を反射していた。
河原は白く靄が掛かり、小川の位置すら判断できない。此岸と彼岸の境界を見失いそうだった。
「そろそろ、ゆこうか、」
煙って融けた景色の中で、彼の姿だけが鮮明に浮かび上がる。
「何所へ行くの、」
引き攣れた咽から辛うじて発せられた声は、僕の声のような気がしない。
「君はただ僕に、ゆく、と云ってくれさえすれば良い。」
紅い唇が笑みの容(かたち)を作り、とても優しい声音が耳に心地好い。同時に差し出された彼の手を、僕は何の躊躇いも無く握っていた。
「あ……、」
足許の羽黒蜻蛉の翅の金属質な光沢に、雨粒が受ける光が乱反射する。両手で顔を覆った時には既に遅く、虹彩への光の効果で意識が引き摺られた。
今居る場処は、此岸か彼岸か。
「ずっと待って居たんだ。」
生温い風が川面を走り、直ぐ傍を吹き抜けて彼岸花を揺らす。無数の朱色の花弁が僕を搦め捕り、足を掬われた。視界が反転を繰り返し、自分の立ち位置を見失う。激しい眩暈と息苦しさが僕を襲った。
ゆっくりと目蓋を開くと、天(そら)からは天気雨が続いている。失った手の感触を探していると、凪いだ水面を並んで渡る、幾つもの幽かな青い燐光の列。最後尾の彼が目を細め、にんまりと笑った。
「君を、だよ。」
…了
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