色取月

　白い白い闇の中で、僕は初めて彼に逢った。
　月光が針のように降り注ぐ真冬の夜。其処にはもう、月色の空間しかなく。其処に桜の樹が有った事さえ幻の事のように霞んで、僕の記憶を惑わせていた。
　しかし、確かに桜は有ったのだ。彼の白く長い指がその樹皮を辿る。
　呆然と立ち尽くす僕に気づくと、彼はその薄紅の容(かたち)良い唇の両端を僅かに持ち上げた。





　朱鷺色の風が舞う。翅のような花弁が宙を染める。誰も知らないこの桜の樹は、僕だけのために芽吹き、花開き、散る。
　花が開く心地よい気温が幹を温め、背中を預ける僕に届いた。
　不意に。
「この桜は白いでしょう、」
　声が掛かる。肩越しに振り返ると、幹の向こうに尖った肱が見え、そして手のひらいっぱいに掬った花弁をさやさやと零す彼の姿が有った。
「来年はもっと美しい花色になる。」
「誰、」
「君の色で。」
　擦れ違う言葉はごうと鳴った風に攫われる。首筋に触れて流れた花吹雪が、温い温度を連れ去っていった気がした。





　木洩れ日は眩しく、裏葉色を透かして地面に落ちる。容赦ない熱を遮って、葉桜が彼を包んでいた。耳を乾いた樹皮に当てる彼は、導管を伝って脈打つ鼓動を眼を閉じて聴いているようだ。頬に掛かる睫の影が彼の白磁の肌を際立たせていた。
「君は、誰、」
「秋季皇霊祭の日に此処へ、」
「何時、」
　訊き返す僕を憐れむように蔑んだように見上げる瞳は黒曜石の艶。
「秋季皇霊祭、彼岸の中日に此処へ、必ず。」
　虹彩がぐるぐると僕を捉える。
　茹だる暑さの中、彼は涼やかな視線で念を押した。





　季節が移行する。空が高くなり、葉桜に褐色が混じり始めた九月の半ば過ぎ。
　その日僕は彼と彼の言葉に魅かれるようにして、その場所に立っていた。



　桜の樹の下には死体が埋まっている。


「約束通り、来てくれたんだね、」
　張りを無くした桜の樹を背にしたその顔色は蒼白で、鮮やかなほどの唇の紅さが眩暈を誘う。思わず一歩後ずさった。



　樹は死体の血で花弁を染める。


　ひらひらと思ってもみない欠片が僕の目の前を行き過ぎる。くるくると舞って落ちたそれは、僕の靴先に至った。心臓の形によく似た、白い一片の花弁。
「……桜、」
　気づくと彼の後ろにある樹は季節を誤ったかのような狂い咲き。彼の髪や肩に次々に花弁が降り積もっていた。



　本当は白紙の花弁は薄紅に色づく。


「おいで、」
　耳の奥に鼓動が響く。声と共に彼が差し出した手に抗うことはできない。
「君は一体、誰、」
　何度目かの薄い疑問は、僕の手首を掴んで抱きすくめる彼の鳩尾にしか届かなかった。



　色取月に獲た紅は常の年より濃く染み渡る。


「僕は魔魅(まみ)。この桜の……」
「あ……っ、」
　彼が掴んだままの僕の手首に唇を寄せる。瞬間感じた冷たさが痛みだと理解するのに暫く時間が掛かった。
　重い音を立てて手首が樹の根元に転がる。
「君のおかげだ。有難う。」
　遠くの方で彼の声が聴こえた気がする。僕は急激に奪われていく体温に曳き擦られるように間もなく意識を手放すだろう。
　最期に見たのは、僕の紅い体液に塗れる彼と徐々に薄紅に染まりゆく桜が、さわさわと笑ったところだった。



　桜と同じ色に発光する狂気は来年の春、霞に滲む。





‥了

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