彼の翡翠色の目を見た瞬間、僕は全てを理解した。




 僕が最初に希(のぞみ)を見舞った時は、すでに彼が床について三ヶ月ほど経っていた。
 幼馴染とはいえ、毎日のように遊んでいた幼い頃とは違って時が経つに連れ、僕に新しい友人もでき、自然と一緒にいる時間も減っている。希の存在すら僕の中から消えかけた時、彼の母親が訪ねてきた。
「見舞ってやっては貰えないかしら……。」
 心労でやつれた表情の彼の母親に頼まれて、最初僕は「一回ぐらいなら」と見舞う事を了承する。深深と下げられた彼女の頭を見て、喉が乾いたのを思い出した。


 希は広い和室の真ん中に敷かれた布団の上で半身を起こしていた。枕元には花をつけた睡蓮鉢が置かれていて、殺風景な部屋の中に適度な湿度とやわらかな香を飾っている。
 通された部屋の廊下側の障子は開け放たれていて、余計な枝一本ないように整えられた庭が見渡せた。しかしこの風景だけを三ヶ月も見続ける事は僕にはできないだろう。息苦しい厳格さがそこには有った。
 目が合った一瞬、途惑った表情見せた彼だったが、聞き慣れた良く透る声を僕に向ける。
「母に頼まれたんだろう。申し訳なかったね、ここ何年かは声すら聞いていなかったのに。」
「別に。でもこんな事になっているなんて知らなかった。」
 できるだけ平静を装って僕は希の側へ座った。細く白い手首と、尖った顎が痛々しい。
 不意に彼の腕の中で銀灰色の艶やかなものが蠢く。滑らかな動きで僕の前を通り過ぎるものが猫だと気がつくのに数秒を要した。
「綺麗な猫だろう。僕の唯一だ。」
 そう言いながら猫の後を視線で追う。猫は庭の中へ消えていった。
「蝶が舞い込んで来る。でも、ここからだと少しの間しか見られないんだ。」
 希は誰に言うでもなく一人ごちている。彼の口元に浮かんだ微笑は、僕の脳に一抹の不安を遺した。


 睡蓮鉢に浮かぶ白い小さな欠片は、花びらだったのだろうか?


 しばらくして再び希を訪ねた。相変わらず半身を起こして静かに佇んでいる。腕には銀灰色の猫。
「また来くれるとは思わなかった。」
 僕の顔を見るなり自嘲気味に笑う。
 曖昧な笑みを張りつかせて、僕は彼の脇へ腰を下ろした。
 猫はまた庭に出ていく。翡翠色の視線が僕を射貫いた。
 猫を見送った僕が希に向き直ると、睡蓮鉢が目にとまる。水が僅かに濁っていた。鉢の周りの羽毛が、見てはいけないものの存在を裏付けている。
 「小鳥の声がする。姿は見えないけどね。」
 障子に切り取られた箱庭の空を見上げながら、希は静かに笑った。


 赤褐色の水は何を飲みこんでいるのだろうか?


 そして、今日。
「君はこれからもここへ来てくれるのかい。僕を見舞いに。」
 真っ直ぐに僕を見つめる希の瞳には、僕の姿は映ってはいなかった。


 銀灰色の猫はいない。








 睡蓮鉢の中で花弁のようになった蝶の欠片も、無惨な鳥の屍骸も、希が欲したものだ。ゆっくりと、そして着実に正気を失いつつある笑みを浮かべながら、腕の中の動く事のできる自らの分身に語り掛ける。

   アレガホシイ

 分身は主である希の意思を忠実に再現する。

   キミガタメニ

 そして彼にとっての僅かな外世界である睡蓮鉢に捧げるのだ。






 右目の視界が朱に染まる。薄れいく意識の中で、睡蓮鉢に浮かぶ眼球と、希の腕の中でぐるぐると喉を鳴らす、銀灰色の猫の姿を見た。

   キミガ タメニ

   キミガ ココロノ ママニ

   キミガ キョウキヲ

   スベテ ワガミニ






・・了
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