唇から伝わるものは言葉だけじゃないよね。

 体温と、ほら、解るだろ――?










 週末に植物園に行こうと云い出したのは理清(りさや)の方だった。日差しに温度が戻ってきて外でも過ごし易く、そして、温室の中でもまとわり付くような湿気に悩まされないこの時期にはぴったりの場所だ。僕は二つ返事で了承した。
「例のアレ、持って来いよ、」
 そう言って部屋に帰ってしまった理清。
 翌日に出掛けるのであれば、どちらかの部屋で夜明かしするのが常だというのに。その理由さえ訊けずに扉の中へ消えてしまった彼の背中を、僕はただ、見送る事しかできなかった。
 寝台に入ってみても何となく落ち着かず、ただ無闇に寝返りを打つだけ。気が付けば窓の向こう側で天(そら)が白み始め、蒼が濃くなると目覚まし時計が鳴った。
「おはよう、架乃(かの)、」
「……お、おはよう、」
 普段通りの理清の様子に途惑いつつ、それでも僕より少し冷たい彼の手に誘われて部屋を後にする。バスを乗り継いで往く内に、不安も取り越し苦労だったような気になっていた。
「アレ、持ってきた、」
 植物園に着き、温室を見て回った僕等は芝生の敷き詰められた中庭に出る。眩しい陽の光を手で遮っていた僕は、理清が何を云っているのか一瞬、理解できなかった。
「アレだよ、まさか忘れたの、」
 その時になって漸く、昨日の別れ際の理清の台詞を思い出す。
「ごめん……」
 俯く僕の頤を捕って自分の方に向けた理清が冷ややかな視線を向けてきた。
「それは何に対して謝ってるの、」
「理清の言葉を、憶えてなかった、事――、」
 顔を背けられないから、目線だけで逃げる。それでもよく考えたら、あの時の彼のいつもと違う行動の方に注意がいった所為。
 反論しようとして視界に捉えたのは、いつもの理清の高飛車な笑み。
「僕の所為じゃあないだろ、」
「だって……、」
「一晩一緒に過ごしたかった、」
 耳元で囁く理清の吐息に息を呑む。硬直する僕の目の前で、濃茶の虹彩がくっきりと浮かぶ琥珀色の瞳が少し細まって、続いて容のいい唇の片方の端がクイ、と上がった。
「――葉脈標本を作る為の準備をしてたんだ。」
 葉脈標本。例のアレに思い当たる。
「顕微鏡(マイクロスコォプ)、」
「ああ、スタンド式のを手に入れたって云ってただろ、」
 理科機材を扱う店でずっと前から欲しかったそれを、最近になってやっと買うことができた。嬉しくて部屋中のものを覗いてみたけど、それにも限界がある。理清はそんな僕に気づいてくれてたのだ。
「ありがとう、」
「何の事さ。顕微鏡が無いなら、葉脈の下調べができない。」
 全面的に否定して、彼は芝生の上に腰を下ろした。次の僕の台詞を待つように、琥珀色の視線は動かない。僕は声が出ない代わりに鼻の奥がツン、として熱くなった。
「しょうがない、今日は他の事をするよ。」
 理清の声がどことなく優しく響いて、俯く先に手が差し伸べられる。何気なくそれに延ばした手首を強く掴まれた。驚く間もなく、そのまま理清は僕を身体ごと引き寄せる。



「架乃の全部を見せてもらうよ。」






‥了
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