最初の雪が零れる前に告げなければ、春までその情熱は凍結させなくてはならない。





 白い闇に包まれるこの街を厭うあの人は、また、僕の知らない場所へと旅立つ。
 元来、彼は一所に長く落ち着くことの出来ない性分だった。
 そのあの人が姉と籍を入れてからこの冬を越せば1年になるところだ。
 誰もが驚き、信じられなかった婚姻は恙無く結ばれ、さり気なく続いている。そう、さり気なく。二人の間にうねるような想いは見当たらず、凪いだ湖に張る氷のように静かな表面をしていた。










「また、出て行くんですね、」
「あぁ。」
「良く姉さんはあなたみたいな人と、一緒になったものです。」
「君の姉さんはそんな事は承知の上だよ。」
「でも……、」
「心配することじゃない。」
「そう、ですね……、」
「それとも……、」


 気温が揺らぐ。


「礼(ゆき)、君が行くなと云うなら、ここに残っても良い、」
 一瞬暗転した視界と、唇の違和感が僕の思考を停止させる。細胞の一つずつまでもが静止する、絶対零度の罠。

 
「彼女を宜しく頼むよ、」
「この春を迎えられないかも知れないのに。」

 ぴしり

 氷が割れたような音が耳の奥を障る。薄く笑みを浮かべた義兄の、その節ばった長い指が僕の顎を取った。指で触れた場所から喉を伝って、心臓が冷える。
「そうしたら、礼は泣くかい、」
「何、言ってるんですか、」
 彼の青鈍(あおにび)の瞳に映らない姉の姿を思い出す。恐らく、彼は泣かないだろう。
「君が愛してると云ってくれたら、泣く。約束するよ。」
「あなたっていうひ、とは……、」
 さっき冷たい体温が通った道筋をなぞる指が、僕の言葉を遮った。
 喉、鎖骨を滑った指先が鳩尾で止まる一瞬、シャツの釦の合せの隙間から浸入した手の感触に跳ねる。
「礼は温かい。」
 思わず零れかけた息を飲み込んで、素肌に直接触る彼の手を抜いた。
「……止め、て、下さい……、」
「あぁ。もう往かなくてはいけないからね。」
 彼は何事もなかったように、足元においていた小さな鞄を手にする。
 相変わらず、荷物はこれ一つ。革のベルトの付いた、古いが型崩れのないトランク。胴の部分の布は僅かにくすんではいるが、恐らく凛と冴えた温度であろう真鍮の留具は、掛けた様子もないほど磨かれていた。





 金属の光沢に身震いをした僕は、まだ残る彼の手の冷たさを抱く。





「義兄さん、」
 思ったよりも簡単に彼は足を止めた。振り返る義兄の口元には凍える呼吸と笑み。
「止めてくれる気になったのかい、」
「そうしたら、行かないでくれますか、」
「あぁ。君が残れと云うなら、そうさせてもらう。」
 二人の間の空間が街燈の灯りに乱反射して、彼の表情が見えない。僕の想いと彼の青みがかった虹彩が燐光(スバァク)するようで、眩暈を憶えた。
「行かな……、」
 口に出した筈の熱い恋情は、天から降りてきた白い結晶体に阻まれる。
「時間切れだ。今年最初の雪に追いつかれてしまった。」


 心臓に刺さったのは、棘ではなく氷柱。一瞬で氷塊となる僕の心。


 歩き始めた義兄の背中には、この場所への未練や、姉への憐憫の欠片も見受けられない。手にする小さなトランクの中には、ここでの時間は入ってはいない事実が凍てついた留金から滲み出ていた。










「あの人には、礼の温かさが必要なの……、」
「姉さん、」
「私ではあの人を温める事はできなかった。」
 寝台の上の姉は痛いほど白い。
「知ってる? 雪は温かくなければ降らないって、」
 姉の視線は窓の遥か彼方に有る霞む峰を捉えようと僅かに細められる。この季節独特の灰色の風景に、それを見つけるのは叶わないのだけれど。
「氷点下の温度が低すぎても雪にはなれない、」
「……。」
「あなたの温度が、丁度良いのよ、礼、」


 そう云って、姉は雪が解けるのを待たずに、自ら融けて消えた。


 義兄は戻らず、僕は泣かなかった。










 原子・分子、時間や心に至るまで、全ての熱運動が排斥された絶対零度の僕に、雪はいつも温かく降り積もる。


 あの人は――遠い。






‥了
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