河の上を滑る風が僅かな涼を連れて僕等を取り巻く。堤防沿いに設えられたサイクリングロードを自転車で駆けながら、僕の心は既に今夜の花火祭へと飛んでいた。昼ものの色柳が音と煙で上空から急かす。裾に橙の滲んだ菫色の夕空に色のない花火が開いて祭の始まりを告げた。
「早く行かなきゃ。良い場所がなくなる、」
後ろを走る陽早(ひはや)を振り返る。陽早は夕焼けの朱に頬を染めながら、色柳の中心から垂れる白い帯状の煙を愉しそうに眺めていた。
「聞いてる、」
自転車を漕ぎながらいつまでも後ろを見ている訳にもいかず、仕方無しに逸る足を止めて彼が追いつくのを待つ。漸く並んだニ台の自転車。
「混雑を嫌うのは陽早だろう。他人と他人の隙間で見る気なの、」
「まさか、桟敷で見るつもりかい、」
僕の厭味を一蹴して、にこりと笑む。額に張り付く細い前髪を掻き揚げて、じんわりと昇ってくる熱気を逃がす陽早の目には、何か良くない事を思いついたらしい色が見て取れた。
「ここに来たのは飲み物を調達するためさ。シトロンにしようか曹達水にするかで悩んでたんだ。」
彼がペダルを漕ぐ片足に力を入れる。ぐんと風を切って進み始めた陽早の自転車は、あっという間に点燈したばかりの堤燈が並ぶ辺りまで到っていた。
僕がしたのと同じように自転車を止め、陽早が呼ぶ。
「早く、汐音(しおね)。じきここも自転車で通れなくなる。」
「待ってよ、」
慌てて自転車を走らせる。人いきれの中に僕等と二台は融け込んでいった。
結局、僕等はシトロンと曹達水の両方を買って、サイクリングロードを外れた。
花火祭の喧騒が嘘のような細い路地。薄ぼんやりした夜店の灯りだけが堤防の向こう側にあるのが分かる。空は藍から紺へと染め直されつつあった。
「ここに登るの、」
「特等席だろう、」
錆びて塗装の剥げたフェンス。その上の有刺鉄線。蝶番が歪んだ扉には不釣合いなほど光沢のある真鍮の南京錠。乗り越えてくれと云わんばかりの障害(トラップ)の先には古い火の見櫓がひっそりと佇んでいた。
自転車を止め、櫓の天辺付近にある鐘が掛かっていたであろう腕木を見上げる。
「花火を見るのに火の見櫓なんて打って付けじゃないか、」
ぐるりと上を見渡して有刺鉄線の大きく捩れた場所を探すと、陽早はフェンスに手を掛けた。僕もそれに倣う。片手に壜を持っても容易に登れた。
樹で組まれた櫓は思ったよりも安定していて梯子を登るにも不安はない。時々軋んで、ぎっ、と云う度、僕等は顔を見合わせて笑った。
露台のようになった所で二人並んで座ると、丁度仕掛けの連発花火が打ち上がる。赤、黄、青、緑の華が開き、遅れて高い音と破裂音が響いた。
足を投げ出している所為で宙に浮いた身体は自然と天(そら)と同化し、そして花火と共に投げ出される。浮遊感を愉しむ僕の頬にひやりと壜が触れた。
「……冷たい。」
「喉が渇いた。早く開けよう。」
「うん。」
壜のキャップを捩じ切ると炭酸が抜ける音が気持ちいい。そのままの爽快感が咽を通って僕を潤した。
不意に。
群青の天幕が塞がれる。
冷とした唇。
君の後ろに溢れた花火の欠片と、火薬の爆ぜる音が在る。
俯けた視線の先に行儀良く並ぶ二台の自転車。ステンレスのリムに中空の色が映る。僕は花火を見下ろしていた。
‥了
「早く行かなきゃ。良い場所がなくなる、」
後ろを走る陽早(ひはや)を振り返る。陽早は夕焼けの朱に頬を染めながら、色柳の中心から垂れる白い帯状の煙を愉しそうに眺めていた。
「聞いてる、」
自転車を漕ぎながらいつまでも後ろを見ている訳にもいかず、仕方無しに逸る足を止めて彼が追いつくのを待つ。漸く並んだニ台の自転車。
「混雑を嫌うのは陽早だろう。他人と他人の隙間で見る気なの、」
「まさか、桟敷で見るつもりかい、」
僕の厭味を一蹴して、にこりと笑む。額に張り付く細い前髪を掻き揚げて、じんわりと昇ってくる熱気を逃がす陽早の目には、何か良くない事を思いついたらしい色が見て取れた。
「ここに来たのは飲み物を調達するためさ。シトロンにしようか曹達水にするかで悩んでたんだ。」
彼がペダルを漕ぐ片足に力を入れる。ぐんと風を切って進み始めた陽早の自転車は、あっという間に点燈したばかりの堤燈が並ぶ辺りまで到っていた。
僕がしたのと同じように自転車を止め、陽早が呼ぶ。
「早く、汐音(しおね)。じきここも自転車で通れなくなる。」
「待ってよ、」
慌てて自転車を走らせる。人いきれの中に僕等と二台は融け込んでいった。
結局、僕等はシトロンと曹達水の両方を買って、サイクリングロードを外れた。
花火祭の喧騒が嘘のような細い路地。薄ぼんやりした夜店の灯りだけが堤防の向こう側にあるのが分かる。空は藍から紺へと染め直されつつあった。
「ここに登るの、」
「特等席だろう、」
錆びて塗装の剥げたフェンス。その上の有刺鉄線。蝶番が歪んだ扉には不釣合いなほど光沢のある真鍮の南京錠。乗り越えてくれと云わんばかりの障害(トラップ)の先には古い火の見櫓がひっそりと佇んでいた。
自転車を止め、櫓の天辺付近にある鐘が掛かっていたであろう腕木を見上げる。
「花火を見るのに火の見櫓なんて打って付けじゃないか、」
ぐるりと上を見渡して有刺鉄線の大きく捩れた場所を探すと、陽早はフェンスに手を掛けた。僕もそれに倣う。片手に壜を持っても容易に登れた。
樹で組まれた櫓は思ったよりも安定していて梯子を登るにも不安はない。時々軋んで、ぎっ、と云う度、僕等は顔を見合わせて笑った。
露台のようになった所で二人並んで座ると、丁度仕掛けの連発花火が打ち上がる。赤、黄、青、緑の華が開き、遅れて高い音と破裂音が響いた。
足を投げ出している所為で宙に浮いた身体は自然と天(そら)と同化し、そして花火と共に投げ出される。浮遊感を愉しむ僕の頬にひやりと壜が触れた。
「……冷たい。」
「喉が渇いた。早く開けよう。」
「うん。」
壜のキャップを捩じ切ると炭酸が抜ける音が気持ちいい。そのままの爽快感が咽を通って僕を潤した。
不意に。
群青の天幕が塞がれる。
冷とした唇。
君の後ろに溢れた花火の欠片と、火薬の爆ぜる音が在る。
俯けた視線の先に行儀良く並ぶ二台の自転車。ステンレスのリムに中空の色が映る。僕は花火を見下ろしていた。
‥了
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