僕ニ気ヅイテ



 露台の硝子戸を軽い音が叩く。気づいて戸を開けて外に出ると、甘い薫りが何処からともなく僕を誘った。



 僕ニ気ヅイテ



 そう云われたような気がして一歩踏み出した靴先で、小さな橙色の欠片がくるりと回る。屈んで拾い上げると、それは独特の形をした糖菓だった。
「金平糖――、」
 氷砂糖の蜜の甘い匂いが僕をくすぐる。けれども、辺りをたゆたっている薫りとは異なり、拾った金平糖をポケットに仕舞うと再び歩き始めた。
 道は知った様子から知らない様相へと変わり、景色も見慣れない風に変化していく。しかし、あの甘い薫りだけは何処までも続いており、それだけが僕の足を進めた。
 途中、不意に薫りを見失う事があった。そんな時は決まって、道標のような橙の金平糖が僕を案内する。拾い続けてポケットの中は随分といっぱいになった。
 大きな蔦の装飾のされた青銅の門扉の前で、僕の足が止まる。錆色の館と朽ちた庭。足元には橙色の花冠が敷き詰められ、荒れ果てた洋館を飾り立てていた。
 ふわり。
 漂う薫りが僕を包む。
 光沢のある濃い緑の葉をした若木が、庭の片隅にひっそりと立っていた。密集した葉の間だから覗く、橙色の小花たち。
「金木犀――、」
 一面に敷き詰められた、糖花の甘い薫りに眩暈がした。ポケットの中の金平糖は柔らかな花弁となり、降り積もった花たちに混じって消える。



 君ヲ見ツケタ






‥了

日本文学館10月度超短編小説大賞 審査員推薦賞
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