男は自らを神と名乗って恭しく頭を下げました。それから仕立ての良い外套の、裾の方に張り付いた大きな物入れに片手を差し入れると、仄明るい球形の匣をそっと取り出します。片手の手のひらに乗るほどの大きさで、薄い摩り玻璃に銀鍍金の真鍮で細やかな植物の蔓の様な装飾を施した卵型の匣でした。
 ふわりと風が匣を撫でる度、表面を淡く発光した空気が滑ります。口の両端を左右に大きく引き上げた神は、これはどのような願いをも叶える匣だと、僅かに宙に掲げました。
 そんな事が在る訳が無いと、訝しげに神を見上げる少年が居ります。少年はその真っ直ぐな黒曜石の瞳で神と匣とを見比べ、両の拳を強く握り締めて顔を伏せました。
 神は大層嬉しそうに喉をくつくつと震わすと、信じていないのに何故そんなにも叶えたい願いがあるのかと首を傾げます。弾かれたように肩を竦めた少年は頬を朱に染めて、唇を噛み締めるだけでした。
 神と少年が暫くそうしておりますと、何処からとも無くさやさやと木の葉が擦れ合う音がしてきました。空洞のようにしんと静まり返っていた時間に微かな変化がみられ、少年はゆっくりと顔を上げます。同時に神は少年の鼻先に匣を寄せ、大きく頷きました。
 目の前に差し出された華奢な造りの匣を、少年は正しく卵を持つように大事に手に取り、指先に少しだけ力を入れて中心にある蝶番を開きました。ちき、と小さな音が聞こえます。
 匣の中は空っぽでした。少年はその空っぽを黙って凝視して、深く深く息を吸い込みます。願いを言葉にする為に。
「僕の願いが叶いますように。」
 少年の澄んだ透明な願いが声になって匣の中に留まります。くるくると匣の底で踊る願いを愉しそうに微笑んで眺めた少年は、蝶番を閉め、神の手に押し付けるように戻しました。
 踵を返して走り去る少年を、神はとても大切なものを見る目で見送ります。心地良い音階を奏で続ける匣を再び外套の物入れになおすと、光でなく輝く少年の背中に恭しく頭を下げました。






‥了

千文字世界―魅惑の話術― 参加作品
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。