さあ、狂気を始めよう。
 大丈夫、この雨だ。
 誰も何も見ない。
 誰も何も聞かない。
 白い雨に潜んで、黒い狂気を開始しよう。



 遠雷がぐるぐると唸る。
 この時はまだ正気だった。僕の中の硝子質の部分が、雷鳴を感じて振動していたのを感じていたから。音の波にひび割れ、それが砕けていったのも憶えているから。
 気圧の変化を身体で感じる。鼓膜が圧迫され、雨が降り出す合図。
 肌のすぐ上で湿度が雨に変わる。
 凶器のような雨粒が凝り固まった空気をも押し潰し、ぐにゃりと歪んだ窓の外の景色に、彼が立っていた。
 篠突く雨に打たれながら、打たれても尚、とても平静に立ち尽くしている。顔に張り付く髪の隙間から覗く瞳が近づいてきた稲妻を反射して丹色に光る。薄く開かれた血の通わない唇の両端が引き上げられた。声を通さない誘いが僕の思考に纏わりつく。
「さあ、狂気を始めよう。なに、それ自体は大した問題じゃあないよ。己の心にさえ目を向けなければ、」
 そう云って彼は雨の中に沈む。
 何かを消去するように。
 白い雨が掻き消していく。
 墨色の雲から流れ落ちる白雨の美しさに眩暈がした。凶器を隠す黒の天幕に狂気を映し出す白のスクリーン。僕は舞台に立ったようで、踊りだしたくなるのを堪えられなかった。
 悲鳴は溶ける。大量の血液も洗い流される。無かったことになる。
 雨音が耳に障った。
 僕の手は何色に濡れているの?



「あああああああああああ、」



 ああ、可哀想に。
 気づいてしまったんだね。
 気づきさえしなければ、君は正気でいられたのに。






‥了
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