「もう、要らない。」
 君にそう云われて、僕の胸の奥に在る硝子質の何かが、きり、と歪んだ。
 僕は君の姿すら見えない、冥(くら)い両開きの扉の奥へと見捨てられた。天井近くの灯かり採りから覗くのは針のように細く尖った月。耳障りな玻璃(ガラス)の軋む音が僕の内側に響く。
 昨日まで僕の場処だった君の隣に、今は知らない誰かが居る。
 僕の何処かが罅割れて、君からの想いを総て流出してしまうのかも知れない。僕の中を温かく巡っている紅い想いが、欠け落ちた箇処から止め処も無く溢れるのだ。総てを喪失し、最後に残るのはココロと謂う硬質で繊細な結晶。想いを失って剥き出しになった鋭利な結晶体が、僕を内側から貫くのにそう時間は掛からないだろう。



 僕の髪を梳いた手で、君はその子の髪を撫でる。
 僕の瞳を見つめた目で、君はその子の瞳を覗く。
 僕の唇を塞ぐそれを、君はその子の唇に被(の)せる。



 君がどんな風にその子に触れるのか理解できる記憶を呪った。
 月光で蓄電しよう。これだけ冴えた夜天なら、僕が動く分のエネルギィにはなる筈だ。それから関節が軋まないように、夜露を注さなくては。
 蝶番が音を立てないように慎重に扉を開く。窓掛けが下ろされた君の部屋は闇がより濃く、瞳孔の調節に少し手間取った。網膜の光受容体を交換する間、耳を済ませて君の寝息を確認する。大丈夫。静かで深い、規則正しい呼吸が鼓膜に沁みた。
 僕は一歩一歩、寝台に近付く。眩暈がするほど時間を掛けて。でも実際には数瞬の出来事。
 寝台から零れた君の腕が白く発光して僕の視線を誘う。辿った先の指先が絡まるのは僕ではない。
 刹那、視覚に捉えた誰かの白磁の肌、黒曜石の瞳、桜貝色の唇。

 僕と同じ、鋳型から造られた筈の麗しい人形。

 穢れてしまった僕を遺棄し、君が手に要れた玩具。

 僕の胸部が大きく罅割れ、貫く方錐形の想いが覗いた。
 艶やかな腕を取って君を抱き起こす。はっきりと覚醒するまでの虚ろな君の視界に僕が映ったのを認識して、ゆっくりと、そして強く抱き締めた。
 僕を貫く結晶体が君の身体をも破壊する。紅い紅い、ココロが浮かぶと謂うヒトの体液が溢れ出した。



 罅割れてしまった君は、もう、要らない。






‥了
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