天文台の建つ丘に拡がる下草が夜露を含んで僅かに冷えている。昼間ならば所々に派手なコントラストで群生する彼岸花の姿が見える筈だが、夜の闇は輪郭のみを陰に映しているだけだった。
 群青の天幕は昨夜と同じに其処に在り、貼り付けた星図だけが移動している。大地が動いたのでも、天が動いたのでもなく、時間が動いた証。
「本当に時間が動いているのかい、」
 不意に響く声の主を探して、僕は首を巡らせた。傍らに腰を下ろし、僕を斜めに見る少年と目が合う。
「君は、」
「僕は死人花だよ。」
 驚いて口を噤む僕に静かに笑いかけた彼は「僕が誰でも大した問題ではないよ。」と独り言のように呟く。不審に思う僕のことをもまるで問題ではない風に眺め、可笑しそうに咽を鳴らした。
「本当に時間は動いていると思うのかい、」
 再び繰り返される問いに、途惑いつつも頷く。そうするより他に答えられない。現に天(そら)では星が動き、雲が流れているし、濡れた下草は徐々に温度を下げている。なにより腕時計の秒針が静かな音を立てて、確実に時を刻んでいた。
 着実に、確実に、先へと向かって。
「果たして本当にそうだろうか、」
 細い葉先についた雫を指先ですくって口元に持って行く彼の所作。星灯りに照らされた彼の唇は、確かに彼岸花のように紅かった。
「君は一体、何処に立っていると思う、」
 真っ直ぐに向けられた視線と彼の今までの口ぶりで、訊ねられているのは場所のことではないのは理解できる。時間の流れの中での、僕の立ち位置。
 ――今。今日。現在。
 思い浮かんだ回答が質問に対して適切であったかと不安げに見返すと、彼はとても満足したように笑む。
「そうだね、君は其処に居る。」
 優しい夜風が二人の間を通り抜けた。安堵の溜息は自分のものでも温かく、僕も彼に微笑みかける。
「君は昨日から来て、今日に居る。それから、」
「明日に――、」
「まさか、」
 得意になって続ける僕の言葉を乾いた声で遮った彼は、しかし、はっきりと否定した。
「明日なんて、在り得ない。」
 昨日、今日、明日。過去、現在、未来。不変のもので普遍なもの。

 存在自体を打ち消されたような衝撃。

 それでも相変わらず彼は、僕の状況など無視して言葉を続けた。
「時間は今よりも後に存在するだけで、先に向かって進んでいくものでは在り得ない。」
 肱を伸ばし天を指差す彼を見やる僕の背中に、温い感触。
「だってそうじゃあないか。あの光は過去から今に届いた光。今よりも先へは向かわない。」
 天の濃紺を掴んだ手を下ろし、其処に有った花の茎を手折る。
「これでこの花は終わり。明日など、無い。」
「君が折らなければ、明日も咲いていたかも知れない。」
 それは無理矢理に時間を止めた結果だと云おうとして、呼吸が止まった。摘み取った花片を食(は)む、君の婉然とした表情。
「明日だって、」
 嘲る風に笑う彼の後ろに、目の眩むような漆黒の闇が見える。僕の中の摂理が崩壊していく前兆だった。
「君は明日を体認したことはあるかい、」
「……え、」
 改めて問われると答えられない。明日を思うことは有っても、明日という時間の場処に立ったことはない。『また、明日。』、そう云われて逢うのはいつだったか――。
「今日が終わって眠りにつく。そして、目が覚めたら今日だ。」

 世界が揺らぐ音がした。

 また、明日。そう云って実際に逢うのは明日ではない現実。昨日は愉しかったね、と云うことはできても、明日は愉しいか判らない。愉しいか判断する時点では既に、明日ではなく今日。
「明日は在り得ない。そして昨日も今日も、目まぐるしく変化し、同一では在り得ない。」
「それじゃあ、僕は、」
 気配の無くなった下草の代わりに僕を取り巻く闇が、足元をグラグラと揺るがす。不安は咽を塞ぎ、息が苦しくなってきた。
「――僕は一体、何処に立っているの、」

 揺らいだココロが足場を見失う。

「君は此処に立って居るんだよ。」



 上も下も。
 左も右も。
 前も後ろも。
 昨日も今日も明日も。



 一瞬すら見えない世界に、彼岸花が一輪。






‥了
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