新しい街の新しい空がある場処で、一人で暮らし始めて1ヶ月。見慣れない風景から目を背け、自分の爪先だけを見続けている。
 古い寮のこの窓は、僕が越してきてから一度も開くことはなく、室内の熱(いき)れを逃せずにいた。意味無く三日月錠の開閉を繰り返しながら硝子の外側の世界をぼんやりと眺める。霞む視界は内からなのか外なのか分らないまま、冷たい雨の糸を辿った。





 初めて君を見たのはこの窓越し。
 地平線と平行に向けられた視線で風を切る肩が律動する。伸びた背筋と膝に思わず目を奪われた。
 声など掛けられる筈もなく。喩え、この窓が開いたとしても。
 此処は2階で君は街路を闊歩する。真っ直ぐ前だけを見た君に僕は伝わらない。薄い硝子を叩いたにしろ、音は君の後ろに置いていかれた事だろう。





 地面まで到達した夜空はもうずっと前から濡れていて、まさしく五月闇の様相を呈している。夜の闇か雨のもたらした暗さなのか分らないものが、立て付けの悪い窓の向こうに留まっているのが見えた。
 頭を押さえつける澱んだ空間。俯けられたままの僕。

 君に届きたい。

 でも、下ばかり追っていたから君を見つけた。そう思ってこっそり微笑む。それが可笑しくて、笑い声が漏れる。自然と上向く僕の顔。
 気がつくといつの間にか夜が明けていた。
 朝焼けが輝く。ずっと遠くにある雲。徐々に近づいてくる今日は、以前の街を通過してくる。結局はそう云うことなのだと思う。
 キン
 三日月錠の音。いつもより綺麗。
 開く筈がないと思っていた窓が開く。部屋の中に真新しい空気が注がれ、さらりとした指先で僕の頬を撫でながら巡廻した。
 新鮮な大気に押し出されるように部屋を後にした僕は街路に立つ。
 夏の日差しと春の風が吹く空は僕を見下ろし、僕はその澄んで遠くに有る空を見上げる。
「――、」
 軽く一息吐いて一歩。後は簡単。できるだけ強く爪先で蹴って、できるだけ大きく踏み出す。腕は肩から振って、顔は前。
 そして、目指す先には君。他の誰でもない、君。






‥了
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